同じように、「エキュメニカル・サンデーを覚えて、他教派、他宗教の共同体のために祈りましょう」と言うのもおかしい。
他宗教の人々のために祈ることはいいことだと思うけど(ことに主イエス・キリストにあって神の慈愛なる救いに巡り会えることを!)、それはエキュメニカルのことと全く無関係。
エキュメニカルは、ギリシャ語のoikoumene=家・家庭を由来して、「父なる神の家に属しているすべての者」を意味する言葉である。確かにすべての人は神に造られ、神に愛されていることは間違いない。でも父なる神の家に属するということは、イエス・キリストを抜きにしてあり得ないことだ。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)つまり、家出して父親を勘当した罪人であるわたしたち人間は、イエスを信じてイエスと結び付くという「帰り道」を通らないで、それでもその人が父なる神の家に属している者だというのは、ナンセンスだし、クリスチャンでない人たちの自由意志と尊厳を尊重していないことだと思う。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
わたしたちは、キリストにあって兄弟姉妹となっている人たちのためにも、まだ主イエス・キリストを知らないでいる、結ばれていないでいる人たちのためにも祈るべきだと思う。
ただ、強引に両方を「エキュメニカル」という言葉でまとめようとするのは、イエス・キリストの受肉と死と復活を無効にするのみならず、ただ単に言葉の乱用だと思う。
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