2011年6月19日日曜日

大宣教命令――あなたもそれに関与しているよ

(マタイ28:16-20
三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(A年)

おめでとう!もう半年、頑張って来られましたね。教会の一年は、キリストの到来を待ち望む降臨節で始まりました。そして、わたしたちの間に生まれた救い主、神のみ子の誕生日をクリスマスでお祝いしました。それからキリストとその弟子たちと共に、キリストがヨルダン川で洗礼を受けられたときから、ずっとその癒しと演説の働きを見てきました。そしてついに、罪深い人類のもとで、罪深い人類のために、エルサレムでイエスが殺されたというご受難を覚えました。そしてイースターで、そのキリストが死者の中から復活させられたことに一緒に喜びました。

長い喜びの季節の末、キリストが父なる神のもとに戻られたことを覚え、そして新しい形で、すなわち聖霊が注がれることによって、キリストが近寄ってくださるペンテコステの日をもお祝いしました。

そうすると、だいたい今現在に辿り付くのですね。と言うのは、わたしたちと、先ほど読まれた福音書の中で、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われた弟子たちとは、基本的に立場は一緒なのです。

このイエスの言葉はよく「大宣教命令」と呼ばれます。この言葉をもって、イエスは、地球の史上最大、最長のプロジェクトを開始されたのです。すなわち、イエスに従って出て行き、ありとあらゆる人間を主イエス・キリストを知り、キリストに従う喜びへと導く、というプロジェクト。

この言葉は非常に大切だと思いますので、今日はいつもとちょっと違って、皆さんと一緒に福音書を一節ずつ見たいと思います。一節ずつごく短い一言を共有したいのです。少し早く進みたいと思いますので、週報に載せた福音書を参考しながら聞いてくださるとありがたいです。

l         16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
まず注意していただきたいのは、「十一人」になっていること。マタイの福音書では十一人の弟子しか集まっていません。十二は完全な数字、イエスが選ばれた使徒の数、イスラエルの十二部族の数。でもイスカリオテのユダは、イエスを裏切り、そして自分の命を絶ったので、十一人になってしまいました。一人足りない。不完全です。

にも拘らず、イエスが派遣なさるのは、この十一人なのです。イエスは十一人っぽい教会(=不完全で、欠点のある、弱い教会)を世の中に遣わし、そのミッションを行ってもらう、ということです。

さらに、イエスは「弟子たち」に向かって話しておられます。ここでは使徒と呼ばれません。主教でも、司祭でも、専門家の伝道師でもありません。単なる弟子です。洗礼を受けた人のことです。皆さんです。

そして、弟子たちは「ガリラヤに行く」。つまり、発祥地に立ち返るわけです。わたしたちも、イエスに従う者としてそのミッションに参加するというのは、すでに置かれている状況の中で始まるのです。家で。職場で。近所で。いつも行っているスターバックスで。保護者会のミーティングの中で。

そしてもう一つ気づいて欲しいのは、このやり取りは「山」の上で行われる、ということです。これは意味深いことです。山は、神がご自身を現す場所です。山の上で、神はモーセに十戒など律法を授けてくださいました。山の上で、イエスはその「山上の説教」という有名な説教を演じられました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3

そしてまた、山の上で、イエスはその弟子たちに命じられています。「行って...わたしがあなたたちに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:20)。この「命じておいたことすべて」は、何よりも山上の説教の内容を意味していると思われます。イエスがこの世を治める治め方は、山上の説教の教えを実行しようとする人たちの心を通してです。

l         17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
この言葉が大好きです。トマスの「イエスの手の傷を見なきゃ信じるもんか」と同じように、この言葉はわたしたちの疑いをちゃんと認めているのです。

確かに、わたしたちは毎週イエスを主として、救い主として、神のみ子として拝んでいます。でも同時にいろいろな疑いを抱いていると思います。果たして神がおられるのか。イエスは自称していらっしゃる通りに考えて良いのか。本当に死者の中からよみがえらせられたのか。このわたしと本当に関わりがあるのか。聖餐式のうちに本当に臨んでくださるのか。

でもご覧ください。イエスは、ご自分を拝みつつ疑いを抱いている人たちを相手にしておられるのです。全く批判したりはされないのです。むしろ、「イエスは、[彼らに]近寄って来た」のです。

イエスがミッションに派遣するのは、礼拝しつつ疑問を持ちつつある弟子たちなのです。

しかも、わたしたちがイエスに従って行けば行くほど、もっと知るようになります。アフリカの宣教医師だったアルベルト・シュバイツァーの言葉を借りれば:「イエスについて行けば、イエスを知ってくる。」これは頭の知識を越えたものだと思います。

わたしたちはイエスに従って行くと、いろんな疑問は自然に解消されていきます。きっと新しい疑問も沸いてきます。でも知っておくべきことは、全く疑わない状態に至らなくてもそれなりにイエスを礼拝することも、イエスに従うこともできる、ということです。イエスは、わたしたちのように、ご自身を信頼しつつ疑いを抱きつつある人を用いてくださいます。最初からそうなのです。

l         18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
イエスは宇宙の知事です。すべての命の主人です。「み手の中で、すべてが変わる感謝に」と聖歌にあるとおりです。

だからイエスにとって、特別立入り禁止の領域はないはず。国家のすう勢も。わたしたちが住んでいるコミュニティの共同生活も。このチャペルのあり方も。皆さん一人一人も、イエスの管轄下にあります。

ところが、独裁者と違って、イエスは武力や恐怖を悪用してご自分の意思を押し付けることは一切ありません。むしろ、静かに、絶え間なく、機会があればせっせと働き掛ける方です。そしてわたしたちの応答を忍耐強く待っていておられます。

殆どのクリスチャンは、人生の一部に関してイエスが主であることを認めて、他は全部自分で決めることにしておいてます。恋愛関係とか。選挙で誰に投票するか。お金をどう使うか。人を赦すか赦さないか。お酒の程度などなど。でも実は人生全体がイエスの管轄です。

l         19 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
イエスはすべてを見守ってくださっているから、わたしたちはあえて出掛けて、「すべての民をイエスの弟子にする」勇気が出ます。イエスはわたしたちに先立って、道を整えてくださるのです。

神は一人一人の人間を造り、一人一人にみ心を留めてくださっています。なので、すべての人がみ子によって神に近寄れるのが、神の望みなのです。

これはアブラハムへの約束でもありました。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)。イエスは、この約束が教会において実現されることを期待しておられるわけです。

教会は、こうやって人をキリストにつなげるのに、しばしば不手際をやってきたのは確かです。宣教師は時々イエスに従わせるよりも、宣教師の文化や仕来りに従わせることを教え込むときもありました。また伝道と言って、政治的な影響力を拡大させたり、財産をため込んだりするときもあったと思います。

それでも、すべての民を!というふうに確かに命じられています。そのことを見失ったり、それを恥ずかしく思ったりする教会は、もはや使徒たちによって成立した教会とは言えません。

「わたしの弟子にしなさい」
かなり地味な言葉ですね。人を弟子にするというのは、突如、衝動的なことではありません。リバイバルを開き、大勢の人の感情的な反応を引き起こすような感じではなくて、一人一人の人とじっくり時間をかけて、一緒に暮らしながらイエスのことを教える、というイメージです。見習わせる感じです。

何よりも、イエスとともに生きるとはどういうことか、自分自身の生活、また教会の共同生活をもって見せることだと思います。信頼関係の中で起こることです。

そして人を弟子にする目的は、イエスに密接につなげることです。相手をいい人にするとか、長年のクリスチャンであるわたしたちに似たものにするではなくて、イエスに出会い、そしてイエスを主として受け入れられるように手伝うことだけです。イエスはその人の応答を可能にしてくださいます。心を新たにするのもイエスで、わたしたちの仕事ではない。わたしたちはイエスのことを教える、見せるだけ。

人を弟子にするというのは、おもに二つの側面があります:
l         「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」こと
l         「わたしたちに命じておいたことをすべて守るように教える」こと。

三位一体の神――つまり深い愛の関わりそのものである神――の名によって人に洗礼を授けるというのは、その人を実質的に神の愛につなげることです。洗礼を受けることは大きな影響を及ぼす行為です。

そして山上の説教の内容を始め、イエスが命じられたことを守るように教えるのです。というよりも、一緒に学びます。神に喜ばれる赦し、愛、奉仕、純粋さと謙虚さに満ちた、イエスの道を歩むということはどういうことか、それを一緒に学んでいくのです。

結局は、イエスの道は自由と豊かな命への道なのです。朝の礼拝の「平安のため」から:「永遠の命は主を知ること、完全な自由は主に仕えることにあります。」それを一緒に心得ていくのです。

l         20b 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
ここにこそ、わたしたちがこの大宣教命令をあえて引き受けることができる理由:イエスがともにいてくださるからです。わたしたちに先立って行き、わたしたちに同行してくださるのです。

イエスは、2000年にわたりその教会とともに歩んで来られました。不完全で、疑いを抱きつつ礼拝する十一人の弟子という小さな群れから、世界中最も強大な共同体へと導かれました。すべての国や文化の中で活躍する、すべての言語で主イエス・キリストを礼拝する共同体に至るまで導かれました。

イエスはわたしたちにも同行してくださいます。もしわたしたちも「行って、[暮らしている範囲だけでも]すべての民をイエスの弟子にする」のであれば。

わたしたちはこのイエスの命令に従っていく中で、より親しくイエスを知ることもできて、周りの人により大きな恵みの器になっていくこともできることは、確かだと思います。

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