2012年3月18日日曜日

天上の生活を地上にするマニュアル(出エジプト記20:1-11、ローマ7:13-25)

大斎節第3主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年3月11日・10時30分 聖餐式


この出エジプト記20:1-17ほど人類の文明に大きな影響を与えた文献は他にない、と言っても過言にならないと思います。日本をはじめ現代社会では法律、道徳倫理、人権、憲法など、多かれ少なかれこの十戒に由来しないものは殆どないのです。

古代のさまざまな法律を見ると、殆ど条件付のものです。「もしああういうことをしたら、こういうことになる」。イスラエルの律法だけが違います。絶対的原則になっています。「あってはならない。造ってはならない。してはならない。」普遍的な道徳原理を現しているのです。どの結果がもたらされるかではなくて、これが正しいから守るべきだ、ということ。

十戒は、ある意味で神の心の姿を見るための窓です。要は神が、人殺し、不倫、強盗などが正しくないと思っていらっしゃる方です。逆に言いますと、神は人間が尊い存在だと、人間は互いを尊敬して、思いやりをもって関わり合うべきだと思っていらっしゃる方だ、ということです。

ユダヤ人はこの(十戒が中心となっている)律法が神に授けられた宝物だと思って、これに非常に喜んでいました。今日の詩編にもそれが出ています(詩篇19:7-10):
主の教えは完全で、魂を生き返らせ∥主の諭しは変わらず、心に知恵を与える
主の定めは正しく、心を喜ばせ∥ 主のみ旨は清く、目を開く
主の言葉は混じりけなくとこしえに続き∥ 主の審きは真実ですべて正しい
金よりもどんな純金よりもすばらしく∥ 蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い
律法は誇りの源泉だったのです。これほど完全で素晴らしいことはどこにもなかったからです。律法がなかったら何が善、何が悪から分からなくなってしまうのです。(現代もそうだと思います。ハリウッド映画とかテレビドラマとかでけを見れば、暴力や不倫がいけないことだと分からないでしょう。)

このユダヤ人の抱いていた喜びをどう理解すればよいでしょうか。ルールに対してこれほど喜ぶというのは、どういうことでしょうか。

一つの例として、もしサッカーを全く知らない子どもたちがサッカーをやりたくてグラウンドに集まっても、ルールが分からないからただすねを蹴り合ったり、団子になったり、ボールを手で広げて走ったりします。必ずそのうちけが人も出るでしょう。血まみれになるかも知れません。必ず泣く子も出ます。結局つまらないと思います。

でもそこで、コーチが来て、笛を吹いて、子どもたちにルールを説明すれば、初めてゲームができます。ルールが分かっているから楽しいでしょう。

でも違う例の方がいいかも知れません。というのは、罪――つまり、律法から離れた行動は――もっと重要な問題だと思うからです。その被害が重いのです。

だから、アフガニスタンのような地雷の多い国をイメージした方がいいかも知れません。アフガニスタンでは、よく野原の真ん中におかれている標識という風景が見られます。それは、「この中を通ったら安全だ」ということです。外に出たら危険だ、と。

神は人間の喜びを望んでいらっしゃる方です。だから、み心のそって生きるというのは、本当の喜びにつながる道です。逆にみ心から離れるというのは、その本来味わうべき喜びを見失ってしまう道を走ることです。

こういう意味で律法というのは、神の愛のしるしでもあると言えましょう。もしわたしは子どもに「ストーブを触っちゃだめ!」と言ったら、それは子どもを愛しているからです。「好きにして」というのは愛ではないのです。子どもを愛しているのであれば、当然、痛みから守りたい。まして大きな愛をもって神はわたしたちを痛みから守りたいでしょう。

だから律法は、最初から終わりまで、愛に包まれています。
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十戒について黙想することは非常に有意義なことです。なぜかというと、十戒の「してはならない」の裏には、たくさんの「すべき」ことが隠れているからです。例えば:
  • 「殺してはならない」には、すべての命、胎内からお墓まで、大事にすべきであるということが含まれています。
  • 「姦淫してはならない」には、自分の妻、夫を尊敬し、何も惜しまずに仕えるべきである、というのも含まれています。
  • 「隣人のものを欲してはならない」には、自分のすでに持っているもので満足すべき、自分に対する、そして隣人に対する主のみ心を喜んで受け入れるべき、また、隣人の幸せをも願うべきであることが含まれています。
こうやってもっと突っ込んで十戒を考えるみると、一つの大きな問題に気づいてきます。それは、わたしたちにはこの十戒すら守ることができない、ということです。十戒が指し示してくれる神のみ心を知っていても、その中に従わせる力が含まれていないわけです。

律法によって神のみ心を知ることができるけれども、それに沿って生きるための助けは、律法にはないのです。

聖パウロがローマの信徒への手紙で言っていることは、こういうことです。わたしたちの「霊」と「肉」が対立していると言うのです。つまり、神に喜んでもらえるような、天にふさわしい生き方をしたい望みと、その正反対の方向に走ってしまう傾向とがぶつかっている、ということです:
「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7:22-23)。

つまり正しいことは何であるか知っているし、それをしたいけれども、どうしてもそれができない。できたとしても続かない、といことです。結果として、わたしたち人間は互いを蹴り合い続ける。火傷し続ける。地雷原をさまよい続ける。

どうしてそんな危ない、望ましくないことをするかというと、惑わされているからです。罪、律法から離れた行動は魅力的に見えることがよくあるのです。少なくとも最初のころ。また、人間は縛られたくない心が強いからです。

あるいは、わたしたちは神よりも幸せにつながることが分かっていると思い込んでいることもあります。一人一人の人と世界全体をお造りになった神よりも分かっているつもりでいるのです。

だから世の中を見回すと、みんな普通にしていても中身は非常に傷ついている人ばかり。心のあざだらけ。火傷だらけ。

こうやって罪に傷ついていくとようやくシニカルになったり、人を信じられなくなったりします。本当の自分を人に見せなくなります。本当の幸せをつかめず、イライラしたり、退屈したり、前向きに考える元気が消えてきます。

そして一瞬でも止まって自分を振り返ってみると、いろんなことのむなしさに飲み込まれそうになってしまう。それが怖いから、仕事や食べ物、テレビ、スマートフォン、ポルノ、お酒などなど、いろんなことを使ってむなしさを感じないようにするのです。

こういう悪循環に陥った自分が、そこから抜け出すために頑張ってもだめです。どうしても喜びの道を取り戻すことができないのです。

何か、カーナビがあってもガソリンがないような状態です。あっちだと分かっていてもあっちにいけないのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。自分の力・頑張りで抜け出すことのできないこの悪循環から解放してくださるのは誰ですか。

パウロはその答えをも教えてくれます:
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ7:25)。わたしたちがまだ迷っているとき、まだ罪に絡み付いているとき、まだ生きる苦痛をただ和らげるだけで精一杯のときに、イエスがおいでくださるのです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:2)。神は、わたしたちがそのみ心に従っているかどうか、いい子にしているかどうか、見てからではなくて、その前にわたしたちを救ってくださるのです。愛しておられるからです。まず神がわたしたちを救ってくださいます。そしてそれから、よりいい人になるための意思と知恵と力を付けてくださるのです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、神の道から外れている者のために死んでくださった」(ローマ5:6)

イエス・キリストはその聖霊を通して、律法にそって生きるための意思、知恵、力をわたしたちに付けてくださるのです。それは、救いに値するためではありません。救いはすでに、単なる恵みとしてわたしたちに与えられています。救ってもらえるためではなくて、天の喜びを今でも少しずつ味わえるためです。

そういう天の喜びを味わっている人たちこそ、深く病んでいる世界のただ中で、神の愛の国を築き上げることができるのです。

2 件のコメント:

  1. 「救いはすでに、単なる恵みとしてわたしたちに与えられています。」

    まさしくそのとおりです。救いはすでに私たちに与えられています。しかし、私たちにもなすべきことがあります。まず第一、洗礼を受け、公なる教会の一員つまりキリストの聖なる、神秘的な体の一部にならなければ、救いはわれわれに当てはまらないのです。なぜなら、キリスト=神はわれわれを尊重していらっしゃるから、われわれが本当に救われたいのか聞いていらっしゃるわけです。そして、洗礼により、完全に救われても、洗礼を受けたのち、また救われのない悪の路に戻ってしまったらば、今度はキリストの定めにより、有効の受戒を受けた神父に告白をし、神父の、キリストの代理としての許しの言葉 EGO TE ABSOLVO を通して、キリストにもう一度許してもらわなければなりません。ただ乗りはできないのですよ。

    ANSGERUSより

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  2. 追伸

    上記はキリストの教えを説かれたものに限る。一生、キリストの教えを聞くことのできなかったもの、およびまったく理解できなかったものは、一生、それでも神の、人一人一人の心の中にちゃんと彫刻された定めに従って、正しく生きてきたものは、洗礼を受けることができなくても救われることができると公なる教会は昔から教えています。ただし、これができた人はどれくらいいるかは神様にしか分かりません。

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