2012年3月30日金曜日

sermon preview: playing the bad guy

"Crowd: 'Crucify him!'" (Mark 15:13)

Every year in the Palm Sunday worship, we are made to say the above words, this terrible blasphemy. It is our role to cry out for the death of the most beautiful, most pure Son of God. One meaning of Jesus' passion is that God's hand of mercy reaches out to human beings even at the depths of our suffering and lostness. But another meaning is this: We, too--as we scorn God's will, lead self-absorbed lives, wound the lives of others as well as our own--we ourselves are complicit in the passion. As we enter "Holy Week," one of our tasks is to consider how we add to the suffering of Christ, the Lord of Life.

説教プレビュー:残念ながら、悪役だよ

「群集:『十字架につけろ。』」(マルコ15:13)

毎年、この「復活前主日」礼拝の中で、上記のひどい冒涜の言葉を口にさせられる。最も美しくて最も清い神のみ子の死をしつこく求めるのがわたしたちの役。イエスの受難には、人間の苦しみや迷いのどん底まで憐れみのみ手が差し伸べられているという意味も含まれている。しかし、わたしたちも――み心を否定したり、自己本位的な生活をしたり、人の命、己の命に傷つけたりして――わたしたち自身がその受難に加担しているのだ、という意味も含まれている。命の主であるキリストの苦悩をさらに大きくしている自分を見詰めるのは、この「聖週」の課題の一つでしょう。

2012年3月23日金曜日

マリアが教えてくれること

お昼のコンサート
日本聖公会聖歌集 234番「天使のみ告げをおののき受ける」


クリスマス(イエスの誕生日)=12月25日なら、逆算すると3月25日が母マリアが妊娠したことになります(西洋では妊娠期間が9ヶ月と数えられます=日本式では1ヶ月、アメリカ式では0ヶ月)

だから、「聖マリアへのみ告げの日」が明後日に当たる。聖歌はその祝日のものです。[聖歌234番の1を歌う]

ご存知の方が多いと思いますが、このストーリーを簡単にご紹介をしたい:
時が満ちて、神さまは、ガリラヤのナザレという町の、マリアという名の少女のところに、天使ガブリエルを、送られました...天使は、マリアの家に入ってきて、言いました。「おめでとう、神の恵みに満ちたマリアよ、主は、あなたと共におられます。」

この言葉を聞いて、マリアは驚きました。天使は言いました。「恐れることはありません。あなたは男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい。その子は王となり、永遠に、人々を治めることになるでしょう。」

マリアは答えました。「でも、どうしてそんなことが起こるでしょうか。わたしは結婚していないのに。」

天使は言いました。「聖霊が、あなたの上に降りて、神さまの力が、あなたを包みます。だから、あなたの子は神のみ子と呼ばれるのです。」

そこで、マリアは言いました。「わたしは、信じて、神さまに任せます。あなたが言われたとおりに、なりますように。」(『こころのおくりもの~聖書ものがたり』ドン・ボスコ社96ページ)
+   +   +
キリスト教のスタートに辿り着きますと、このマリアの話があるというのは、非常に大きな意味を持つと思います。マリアは、わたしたち人間の模範だと思っているのです。

神はマリアに「救い主になってくれ」とは頼まれなかった。スーパーマンのような力持ちになるとか、誰にも勝る知恵を身につけるとか、カリスマ性のリーダーになるとか、そういうことをしてくれとは仰らなかったのです。「母親になってちょうだい」と頼まれただけです。

マリアさんにできることでした。その後どうなるか、分からない。不安でいっぱい。シングルマザーを受け入れる社会では決してない。だから聖歌の「み告げをおののき受ける」となっています。

でも、「神さまに任せます」、とマリアが言いました。神に任せるなら、きっと大丈夫だ、ということです。

マリアは、神の呼び掛けにただ応えただけです。わたしたちも、一人一人に与えられた使命があります。「天職」と言えば、何かの職務が浮かび上がるけれども、それだけではない。英語のcallingの方がふさわしい。「呼び掛け」。病院の外来と同じように人によって呼びかけの内容が違います。ただ自分なりにその呼び掛けに応えればいい。職場でも、家でも、学校でも、近所でも、神の呼び掛けに応え続けるように求められているのだ、とわたしは思います。

でも応えていくと結果は、不安で、険しい道のりのかなたに、やはり喜びがあるのです:「み母の喜びわれらは歌う」

喜びがあると言ってもつらいことはないというわけではありません。自分の子どもの苦しみに立ち会わないとならなかったマリアの悲しみもありました。が、神は最後まで見守る方だ、という素直な信仰をマリアがわたしたちにも教えてくださると思います。

2012年3月18日日曜日

天上の生活を地上にするマニュアル(出エジプト記20:1-11、ローマ7:13-25)

大斎節第3主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年3月11日・10時30分 聖餐式


この出エジプト記20:1-17ほど人類の文明に大きな影響を与えた文献は他にない、と言っても過言にならないと思います。日本をはじめ現代社会では法律、道徳倫理、人権、憲法など、多かれ少なかれこの十戒に由来しないものは殆どないのです。

古代のさまざまな法律を見ると、殆ど条件付のものです。「もしああういうことをしたら、こういうことになる」。イスラエルの律法だけが違います。絶対的原則になっています。「あってはならない。造ってはならない。してはならない。」普遍的な道徳原理を現しているのです。どの結果がもたらされるかではなくて、これが正しいから守るべきだ、ということ。

十戒は、ある意味で神の心の姿を見るための窓です。要は神が、人殺し、不倫、強盗などが正しくないと思っていらっしゃる方です。逆に言いますと、神は人間が尊い存在だと、人間は互いを尊敬して、思いやりをもって関わり合うべきだと思っていらっしゃる方だ、ということです。

ユダヤ人はこの(十戒が中心となっている)律法が神に授けられた宝物だと思って、これに非常に喜んでいました。今日の詩編にもそれが出ています(詩篇19:7-10):
主の教えは完全で、魂を生き返らせ∥主の諭しは変わらず、心に知恵を与える
主の定めは正しく、心を喜ばせ∥ 主のみ旨は清く、目を開く
主の言葉は混じりけなくとこしえに続き∥ 主の審きは真実ですべて正しい
金よりもどんな純金よりもすばらしく∥ 蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い
律法は誇りの源泉だったのです。これほど完全で素晴らしいことはどこにもなかったからです。律法がなかったら何が善、何が悪から分からなくなってしまうのです。(現代もそうだと思います。ハリウッド映画とかテレビドラマとかでけを見れば、暴力や不倫がいけないことだと分からないでしょう。)

このユダヤ人の抱いていた喜びをどう理解すればよいでしょうか。ルールに対してこれほど喜ぶというのは、どういうことでしょうか。

一つの例として、もしサッカーを全く知らない子どもたちがサッカーをやりたくてグラウンドに集まっても、ルールが分からないからただすねを蹴り合ったり、団子になったり、ボールを手で広げて走ったりします。必ずそのうちけが人も出るでしょう。血まみれになるかも知れません。必ず泣く子も出ます。結局つまらないと思います。

でもそこで、コーチが来て、笛を吹いて、子どもたちにルールを説明すれば、初めてゲームができます。ルールが分かっているから楽しいでしょう。

でも違う例の方がいいかも知れません。というのは、罪――つまり、律法から離れた行動は――もっと重要な問題だと思うからです。その被害が重いのです。

だから、アフガニスタンのような地雷の多い国をイメージした方がいいかも知れません。アフガニスタンでは、よく野原の真ん中におかれている標識という風景が見られます。それは、「この中を通ったら安全だ」ということです。外に出たら危険だ、と。

神は人間の喜びを望んでいらっしゃる方です。だから、み心のそって生きるというのは、本当の喜びにつながる道です。逆にみ心から離れるというのは、その本来味わうべき喜びを見失ってしまう道を走ることです。

こういう意味で律法というのは、神の愛のしるしでもあると言えましょう。もしわたしは子どもに「ストーブを触っちゃだめ!」と言ったら、それは子どもを愛しているからです。「好きにして」というのは愛ではないのです。子どもを愛しているのであれば、当然、痛みから守りたい。まして大きな愛をもって神はわたしたちを痛みから守りたいでしょう。

だから律法は、最初から終わりまで、愛に包まれています。
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十戒について黙想することは非常に有意義なことです。なぜかというと、十戒の「してはならない」の裏には、たくさんの「すべき」ことが隠れているからです。例えば:
  • 「殺してはならない」には、すべての命、胎内からお墓まで、大事にすべきであるということが含まれています。
  • 「姦淫してはならない」には、自分の妻、夫を尊敬し、何も惜しまずに仕えるべきである、というのも含まれています。
  • 「隣人のものを欲してはならない」には、自分のすでに持っているもので満足すべき、自分に対する、そして隣人に対する主のみ心を喜んで受け入れるべき、また、隣人の幸せをも願うべきであることが含まれています。
こうやってもっと突っ込んで十戒を考えるみると、一つの大きな問題に気づいてきます。それは、わたしたちにはこの十戒すら守ることができない、ということです。十戒が指し示してくれる神のみ心を知っていても、その中に従わせる力が含まれていないわけです。

律法によって神のみ心を知ることができるけれども、それに沿って生きるための助けは、律法にはないのです。

聖パウロがローマの信徒への手紙で言っていることは、こういうことです。わたしたちの「霊」と「肉」が対立していると言うのです。つまり、神に喜んでもらえるような、天にふさわしい生き方をしたい望みと、その正反対の方向に走ってしまう傾向とがぶつかっている、ということです:
「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7:22-23)。

つまり正しいことは何であるか知っているし、それをしたいけれども、どうしてもそれができない。できたとしても続かない、といことです。結果として、わたしたち人間は互いを蹴り合い続ける。火傷し続ける。地雷原をさまよい続ける。

どうしてそんな危ない、望ましくないことをするかというと、惑わされているからです。罪、律法から離れた行動は魅力的に見えることがよくあるのです。少なくとも最初のころ。また、人間は縛られたくない心が強いからです。

あるいは、わたしたちは神よりも幸せにつながることが分かっていると思い込んでいることもあります。一人一人の人と世界全体をお造りになった神よりも分かっているつもりでいるのです。

だから世の中を見回すと、みんな普通にしていても中身は非常に傷ついている人ばかり。心のあざだらけ。火傷だらけ。

こうやって罪に傷ついていくとようやくシニカルになったり、人を信じられなくなったりします。本当の自分を人に見せなくなります。本当の幸せをつかめず、イライラしたり、退屈したり、前向きに考える元気が消えてきます。

そして一瞬でも止まって自分を振り返ってみると、いろんなことのむなしさに飲み込まれそうになってしまう。それが怖いから、仕事や食べ物、テレビ、スマートフォン、ポルノ、お酒などなど、いろんなことを使ってむなしさを感じないようにするのです。

こういう悪循環に陥った自分が、そこから抜け出すために頑張ってもだめです。どうしても喜びの道を取り戻すことができないのです。

何か、カーナビがあってもガソリンがないような状態です。あっちだと分かっていてもあっちにいけないのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。自分の力・頑張りで抜け出すことのできないこの悪循環から解放してくださるのは誰ですか。

パウロはその答えをも教えてくれます:
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ7:25)。わたしたちがまだ迷っているとき、まだ罪に絡み付いているとき、まだ生きる苦痛をただ和らげるだけで精一杯のときに、イエスがおいでくださるのです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:2)。神は、わたしたちがそのみ心に従っているかどうか、いい子にしているかどうか、見てからではなくて、その前にわたしたちを救ってくださるのです。愛しておられるからです。まず神がわたしたちを救ってくださいます。そしてそれから、よりいい人になるための意思と知恵と力を付けてくださるのです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、神の道から外れている者のために死んでくださった」(ローマ5:6)

イエス・キリストはその聖霊を通して、律法にそって生きるための意思、知恵、力をわたしたちに付けてくださるのです。それは、救いに値するためではありません。救いはすでに、単なる恵みとしてわたしたちに与えられています。救ってもらえるためではなくて、天の喜びを今でも少しずつ味わえるためです。

そういう天の喜びを味わっている人たちこそ、深く病んでいる世界のただ中で、神の愛の国を築き上げることができるのです。

2012年3月15日木曜日

a startling discovery

A newly unearthed fragment from the end of Matthew's Gospel, dated possibly to the first century.
"Therefore go and instill a general understanding of Christianity in all nations, affirming them in their own spiritual quests and urging them at least to to take under consideration those things I have taught which do not conflict with current public opinion."
This authoritative new text is set to be included in an upcoming Nippon Sei Ko Kai translation of the Bible.

最近発掘されたマタイによる福音書28章の写本の一部(1世紀?)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をキリスト教の良き理解者にしなさい。彼らなりの霊的追求を肯定し、あなたがたに教えておいたことの中から、現代社会で広く支持されている考えに相容れるものと少し向き合ってもらえるように勧めなさい。」
近いうちに出版される日本聖公会の聖書にこの新しい文が採用される予定。

2012年3月11日日曜日

one year ago

A Joint Service of Remembrance and Prayer for Rebuilding on the One-Year Anniversary of the Great East Japan Earthquake (with Tsukiji Catholic Church)
St. Luke's International Hospital Chapel, March 11, 2012, 2:30 p.m.


(tower bell is rung for about one minute at 2:46 p.m., the time of the earthquake)

One year ago, on a Friday afternoon at 2:46, the most powerful earthquake in Japan's history struck off the coast in Fukushima.

The images from that time are probably fresh in all our minds. The damage caused by the earthquake and tsunami and radioactive pollution from the nuclear power plant accident was enormous in scale. At present, official figures show more than 15,000 dead and more than 3,000 still missing.

"Still." I think that's a key word. We must remember that many, many families are even now still searching for their loved ones. Many still haven't gone home. Many are still grieving deeply. Many are still completely in the dark about what the future holds.
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We live in a world where great suffering occurs. One Catholic prayer (Salve Regina) describes this world as a "vale of tears"

In the face of this suffering, we may often, like Job, want to ask "why?" But unfortunately, no matter how much we ask, I don't think any answers we might find will be very satisfying.

To be sure, maybe 80% of the suffering in the world is caused directly or indirectly by human sin and violence and ignorance and greed. But that still leaves things like 3/11.

The Bible talks about the Fall. In other words, the original sin of Adam and Eve. This caused a cataclysmic disaster, causing the original goodness of the world to be lost. As a result, the possibility of all misfortunes, things like 3/11 and 9/11 and sick children and war, came into the world.

I believe that. But I have to say, as an explanation it's not very satisfying. And I reckon it doesn't do a lot to bring comfort or hope to people in the midst of suffering. The fact is, we just don't really know why some people suffer greatly and some people don't.

What we do know is this: Nothing can separate us from the love of God. Nothing can separate us from the love of God.

One of the reasons what happened on 3/11 was so terrifying was its unprecedented scale. But, one way or another, each of us is going to have to face something similar one day. We will all of us, without exception, lose our loved ones, our homes, our lives. Eventually, death will separate us from all that we hold dear.

But not from God. Nothing can separate us from the love of God.
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On another Friday afternoon, a Friday afternoon 2,000 years ago, the tragedy of the world's evil rushed in and swallowed up Jesus Christ. Christ, too, lost everything. Friends, family, dreams, life itself, all stripped away from Him, in the blink of an eye.

But nothing can separate us from the love of God.

The true God is Lord of the living and of the dead. He has the power to bring light into darkness, and life into death. With God, no one goes missing.

And His love is far stronger than all the world's earthquakes combined.

Let us trust God's promise that nothing can separate us from His love.

And let us ask His mercy for all who died in last year's tragedy, all who were impacted, all who even now live in uncertainty.

一年前

東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂 2012年3月11日 2時半


(ちょうど2時46分、塔の鐘を約1分鳴らす)

ちょうど一年前、金曜日の午後、2時46分、この国の史上最大の地震が東北地方の沖に発生しました。

その時からのイメージがおそらく記憶に新しいと思います。地震や津波、そして原発事故による大量の放射能汚染が及ぼした被害のスケールはとてつもないものでした。今現在の統計によれば、1万5千人以上の死者と未だに3千人以上行方不明者が出た、と言われています。

「未だに」というのは一つのキーワードだと思います。未だに多くの家族がその愛する人を捜し続けている。未だに家に帰られていない人が大勢いる。未だに深い悲しみに陥っている人も大勢いる。未だに将来に対して途方に暮れている人も大勢いることを覚えなければならないかと思います。
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わたしたちが住んでいるこの世界では、このような大きな苦しみがあります。あるカトリックの祈り(Salve Regina)では、この世を「涙の谷」と呼ぶことがあります。

こういう世の中の苦しみを前にして、ヨブと同じように「なぜ?」という問いを投げかけたくなるときは多々ありますが、残念ながら、いくら問い掛けても満足できるような答えはなかなか出て来ないのではないかと思います。

確かに、世界中の苦しみの8割ぐらいは、直接あるいは間接的に人間の罪や暴力や無知や欲張りによって生じるものだと言えましょう。それでも、3・11のようなことはやはり起こります。

聖書には「堕落・堕罪」という話があります。つまり、アダムとエバが犯した「原罪」の話です。これによって一大異変が発生して、世界の本来の姿が失われた、という話です。その結果として、すべての災い、3・11も9・11も子供の病気も戦争など、すべての災いの可能性が世の中に入ってきたわけだという話です。

わたしはそれを信じていますけれども、正直に言えば、あまり満足できる説明になっていないと思っています。しかも、苦しみの只中にいる人にとって、あまり希望や慰めをもたらす説明ではない気がします。

結局は、どうしてあの人が大いに苦しみ、この人があまり苦しまないかということに関して、よく分からないとしか言いようがないと思います。

でもこれだけが分かっています:神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つない、ということです(ローマ8:39)。神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つない。

3・11の最も恐ろしいところの一つは、そのかつてないスケールです。でも、いつかは、似ているようなことがわたしたち一人一人の身にも起こるります。例外なく、わたしたち全員は、愛する人、家、命そのものを失ってしまう日を迎えます。

最終的には、死がわたしたちをすべていとしく思うことから引き離してしまいます。

でも神は違います。神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つないのです。
+   +   +
別の金曜日の午後、2,000年前の金曜日の午後、この世の悪の災いがイエス・キリストを襲って彼を飲み込んでしまいました。キリストもすべてを失われたのです。友人も、家族も、夢も、命も、一瞬にしてすべてがイエスから奪い取られたのです。ところが、神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つありません。

まことの神は生きている人と死んだ人の主です。暗闇の只中に光を、死の只中に命をもたらすことがおできになる神です。神にとって、行方不明という人なんていません。

そして神の愛は、史上のすべての震災を一緒にしても、それよりもはるかに強いものです。

「わたしの愛からきみたちを引き離せることはないよ」という神の約束を信頼しましょう。そして、去年の大きな悲劇によって犠牲になった人々、被害を受けた人々、今でも不安定な生活を余儀なく送っている人々のために、神の慈愛を願い求めたいと思います。

2012年3月7日水曜日

何かをやめる

「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂

今、教会の暦で大斎節中。大斎節とは、2月の半ば(灰の水曜日)で始まり、イースター(復活祭)前の40日間。

これはより一層自分を振り返ったり、見詰めなおしたり、聖書を読んだり、祈ったりする時期です。

やや地味で、ちょっと緊張感のある時期です。受験前の2ヶ月間に似ているかもしれません。日曜日以外、この時期にお祝いをあまりしません。結婚式も原則として行わないのです。

何で40日間というと、聖書によれば、イエス・キリストがその働きを始める前に、40日間荒れ野で断食された。(40は、聖書暗号では「長い間」という意味)

まあ、そこまでするのは、普通の人にとって難しいと思います。

実は、大学で試として1週間断食した...全く宗教上の理由ではなかった。(大学生にるまでに、教会を卒業したつもりでいた。)ただ、一週間何も食べないでいけるのかな?どういうことが起こるか...好奇心があったのです。

何が起こったかというと...お腹がすいたのです!(笑)

でもそれは最初の2-3日。その後、空腹感がない。しかも、集中しやすくなります。気分がすっきりします。不思議でした。

大学で試したことの中で白状できるのはこれぐらいですけれども...(笑)

とにかく、長い間断食することは、普通は難しい。だから教会ではもっと小さいスケールで、大斎節中「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

この「やめる」ことは、もちろん好きなことでないといけないのですね。だから、わたしが「40日間納豆を食べない!」と言ってもあまり意味がないのです。そもそも納豆が嫌いですから。
でも逆にお酒になりますと、相当きつい!(いつか、勇気を出してコーヒーをやめるように頑張りたい...考えるだけで禁断症状が出そうです!)

でも、どうして「何かをやめる」という変なことをするのでしょうか。だってそれは、現代社会と全く正反対なことになってしまいます。世の中では、もっと買い物する、もっと消費する、もっとモノを持つ流れになっています。いろんなことを満喫して、いろんなことを経験して、いろんな楽しみを得ることが美徳になっています。

だからこそ、こういう変な習慣は大事だと思います。現代社会の「もっともっと」主義の中で、何かをやめる、より少ないもので間に合わせることによって、すでにあるものへのありがたさをよみがえらせることができるからです。贅沢な暮らしを当然だと思ってもっと欲求するのではなくて、今すでにある恵みにもう少し満足できるような訓練だと思います。

(「そんなに贅沢な暮らしはしていない」と思っている方はいらっしゃいましたら、一週間だけスーダンとかインドとか中央アメリカで生活してみると、間違いなく見る目が変わります。日本に住んでいるわたしたちは、どう考えても贅沢な暮らしをしているからです。)

だから、「何かをやめる」ことによって、すでにあるものへの感謝の気持ちを改めることに役立つのだと思います。そして、わたしたちは世界の大多数の人よりも物質的に恵まれていることを改めて気づくことにもつながります。

でも教会では、「何かをやめる」ことにもう一つの理由があると思っています。それは、自分に対して欲求が持っている力を打ち破る効果があるからです。何かをやめるとき、良く気づくのは、もしかして初めて気づくのは、いかにそのものを頼りにしていることか、ということです。

わたしが断食をすると食べ物ばかりを考えてしまいます。少なくとも最初のころ。甘いものをやめると、オフィスにあるチョコレートの箱を一日20回ぐらい見詰めている自分がいます。

お酒をやめると、毎晩帰り道、肩の上に悪魔がしっかり座ってそそのかします:「今日は大変だっただろう。ビール一杯はどう?リラックスできるよ。当然のご褒美よ!」

要は、何かをやめると、そのものへの欲求が生意気な子どものようになってきます。注目されたい。満足させてもらいたい。ちょうだい!ちょうだい!ちょうだい!

皆さんは分かりませんが、わたしは自分の欲求に左右されていると思うといやです。何をどうするか、どういう生活をするか、わたしが欲求に強いられるのではなく、自由に決めたいのです。

まあ、そういうわけで、大斎節中、さまざまな欲求の出すぎをたしなめる修行として、「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

こういう話をするとどんどんお腹がついてきます。だから、お話はこれで終わりにしたいと思います!

2012年3月4日日曜日

believing in hope against all hope (Genesis 22:1-14)

Second Sunday in Lent (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel March 4, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist


I think the story of the near-sacrifice of Isaac is one of the most terrifying stories ever recorded. Maybe it's possible, if you read really fast and don't pay much attention, to come away from this story without being bothered by it. But if you stop, and really read between the lines, using your imagination, what you'll probably find is that the more you meditate on this story the more unbearable it becomes.

For example notice how God says: "Take your son, your only son, whom you love—Isaac" (Gen 22:2). He repeats the same thing, so there's absolutely no way Abraham can pretend to misunderstand whom God is talking about.

And God says the name of Isaac, which means "laughter." Isaac was a miracle child, a gift from heaven to Abraham and Sarah late in life. He was their heart's joy. Even as God says his name, He says "sacrifice him." Kill the laughter Isaac brings you.

"Early the next morning Abraham got up and loaded his donkey" (Gen 22:3). The next morning. Can you imagine the night Abraham must have spent? Knowing what he's been asked to do by God? Not able to say anything to anyone about it?

And notice also, it took three days to travel to Mount Moriah. Three days. Imagine what that trip was like for Abraham. In the evening, as he watched Isaac sleeping by the fire. When Isaac wanted to talk to his father about the new things he was seeing along the way.

And finally, imagine the unbearable sadness of Abraham as he "bound Isaac his son and laid him on the altar, on top of the wood" (Gen 22:9). He did that probably to keep Isaac from fighting back when he realized what was going on. So it would be over quickly.

So here, in verse 11, when the angel calls out, "Abraham! Abraham!" I want you to try to hear Abraham's voice, imagine what was in his heart at that moment:
  "Here I am."
 
+   +   +
Ah, it's an awful, awful story! If this was a movie in the video store, I wouldn't rent it. If it weren't in the Bible, I wouldn't read it. Thank God it has a happy ending!

But why on earth would Abraham even think about doing such a thing in the first place? Why would he agree to sacrifice his own son? I want to think about the reason.

And the first thing to say is, Abraham knew this one thing: That YHWH is the one, true God.

To acknowledge that God is really God is to acknowledge that whatever God says is, by definition, right. Whatever God asks of us has a rightful claim on our obedience. Because He's God. Let's get this straight: With God, there just isn't such thing as an "ought not"—as in "God ought not ask me to do such and such."

God never makes bad decisions. His judgment is never off, not even by a little.

So, however unjust something may seem to us small, time- and culture-bound, bent-hearted human beings, that's simply not our call to make. Do you remember the story of Job? Job tried to call "Unfair! Unjust!" And do you remember God's response? His response was: Who do you think you are? Where were you when I created, you know, the cosmos?

This is why we have to take modern "ethics" with a huge grain of salt. The weakness in ethics is that the people who think about ethics never see far enough, never grasp enough of the situation, never have pure enough motives. They simply can't. So, what happens so often is that we end up using "ethical principles" as a fancy way to justify what we've already decided to do.

From an article I read yesterday: "An ethicist's job is like a magician's. The main job of both is to distract you from the obvious." Ethics can so easily become a way of saying "it's okay" to do what you want, while at the same time avoiding responsibility for your actions.

Look at Abraham's ethical dilemma: Should I sacrifice my son, or not? Hmm, let me weigh the advantages and disadvantages…

No. It doesn't work. God's revealed will smashes through all our ethical manoeuvering. To do God's will, that's all that is required of us. "Take your son, your only son…"

To be fair, ethical reasoning may be useful in cases where the will of God is not clear in a particular situation. Such as many end-of-life care decisions.

But the fact is, God's will is more than clear in a lot of cases when we wish it weren't:
  • Is it okay to steal money from my company? No.
  • Is it all right to sleep with my married co-worker? No.
  • Is it okay to have sex before or outside of marriage period? No.
  • Is it okay to fantasize about punching the rude commuter in the nose? No.
  • Is it okay to lie to make someone feel good? No.
  • Do I have to stay married to my husband, if there's no infidelity or abuse? Yes.
  • Do I have to protect all life in the womb? Yes.
  • Do I have to take care of my elderly mother even if she's a pain in the neck? Yes.
  • Do I have to forgive my sister-in-law? Yes.
 
All these things are clearly dealt with in Scripture. We know God's will concerning these things. So we don't need to deliberate or weigh the pros and cons. Our only dilemma is: do we obey God's will, or do we disobey God's will?
+   +   +
But Abraham knows one more thing: "God himself will provide the lamb" (Gen 22:8) How can he say this?

When Abraham was already an old man, childless with his wife Sarah, God said to him: "I have made you a father of many nations" (Gen. 17:5). God told him that through his son, his child with Sarah, would come as many offspring as there are stars in the sky.

This is the promise God made to Abraham. At first, Abraham found it all pretty hard to swallow. A child? Born to a 100-year-old man and a 90-year-old wife? But a year later, behold! Isaac was born. The promise was fulfilled.

Abraham knows that God keeps His promises. God has promised "many nations" through his son, Isaac. And God always keeps His promises.

At times, God may seem to demand a lot from us, even things that seem at the time impossible to bear. But God will never mess around with us, and God will never ask us to do something meaningless.

Of course, Abraham doesn't know how things will turn out, exactly. We always want to know how the future will turn out, but frankly, that's far above our pay grade. (So, all this hype about the Mayan calendar is just a load of stuff!)

Abraham's trust in God must have been pushed to the very limits as he took the blade in his hand. Pushed, and yet he did not lose his hope in God. He continued to hope in the one, true God. The Lord of the living and of the dead. The God who always keeps His promises.

This is why Abraham is called "the father of our faith" (Rom 4:16). As St. Paul writes:
"Against all hope, Abraham in hope believed and so became the father of many nations, just as it had been said to him, ['I have made you a father of many nations' (Gen. 17:5)]" (Romans 4:18)

The author of the Letter to the Hebrews puts it this way:
"By faith Abraham, when God tested him, offered Isaac as a sacrifice. He who had embraced the promises was about to sacrifice his one and only son, even though God had said to him, 'It is through Isaac that your offspring will be reckoned.' [Gen 21:12] Abraham reasoned that God could even raise the dead, and so in a manner of speaking he did receive Isaac back from death." (Hebrews 11:17)
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There is another, terrible story about a "son," a "beloved only son." The child in this story, too, is chosen to become a sacrifice.

This child, too, is prepared to be sacrificed on wood. He is made to bear the weight of the wood. He carries it, not to the top of a mountain called Moriah, but to the top of a hill called Golgotha.

The child in this story, however, is not led in ignorance to the place of his sacrifice, but goes there willingly, in obedience to the will of God.

In this story, no angel stops the metal before it pierces the child's flesh. There is no last-minute reprieve. The sacrifice is carried out. The child dies.

Even more than Abraham, Christ withheld nothing, not even His own life. He continued to hope in God to the very end.
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And God keeps His promises. He is Lord of the living and the dead. He never asks of us something that is finally unjust. Just as with Abraham, God kept His promise to Jesus. More on that at Easter!

So, to trust God, to keep our hope fixed on God, is always the smart choice. And not to trust God, to place our ultimate hope on anything else, is always the foolish choice.

It's a paradox, but I think this is what Jesus is getting at when He says: "whoever would save his life will lose it, but whoever loses his life for my sake and the gospel's will save it" (Mark 8:35)

In other words, whoever would insist on deciding when and where and how much to obey the will of God will end up severing his connection with God, and render himself unable to receive life from God.

But, whoever puts himself in God's hands, come what may, knowing that God is a good, loving God who always keeps His promises, will receive fellowship with God--which is eternal life itself.

This is what it means to have faith. Even as we struggle with doubts and hardships, it is to keep putting our whole trust and hope in a loving God who never breaks a promise.

The Lord will provide. Abraham trusted that the Lord would provide for him, and he was not disappointed. Jesus trusted that the Lord would provided for Him, and He was not disappointed.

The Lord will provide for us what we really need. Let us trust Him with our lives.

なおも望みを抱いて(創世記 22:1-14)

大斎節第2主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 2012年3月4日・10時30分 聖餐式


このイサクが捧げられる話は、史上最も恐ろしいストーリーの一つだと思います。もしかしたらあまり集中しないでこれを早く読めば、悩まされないかもしれません。でもちゃんと読んで、想像力を使いながら行間も読んだら、たぶん読めば読むほど耐え難くなってくるのではないかと思います。

例えば、アブラハムはこういうことを神に言われます:「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」(創世記22:2)――同じようなことを繰り返している感じです。これは、アブラハムが誰の話しか誤解したり、わざと勘違いして逃げたりすることができないように、そうなっていると思います。

しかも神は「イサク」という名前を使われます。「笑い」という意味です。イサクはミラクルベビーでした。年老いたアブラハムとサラへの天からの贈り物。彼らの心の喜びでした。神は「イサク」「笑い」と言いながら、その子を「献げ物としてささげなさい」と仰っているわけです。イサクがもたらしてくれる笑いを死なせなさい、ということ。

「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置いた」(創世記22:3)。次の朝。アブラハムはどのような夜を過ごしたでしょう。何が求められているかを知っていて、何も誰にも言えない、その心の苦しさ。

そして、気づきましたか?モリヤ山まで三日間かかったということに。三日間。アブラハムにとって、どういう旅だったでしょう。夜、たき火のそばで寝ている息子を眺めながら。旅路で見たいろんな新しいことについてお父さんと話したがるイサクとともに進みながら...

そして最後に、自分の「息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた」(創世記22:10)ときの耐え切れない切なさ。これはきっと、やっと何が起こっているのかに気づく息子が抵抗しないように、すぐに終わらせられるように、そうしたのではないかと思います。

だから、この11節、天使が「アブラハム!アブラハム!」と必死に呼びかけたときのアブラハムの返事は、どういう声で、どういう心境で言ったのか、想像してみてください:
  「はい。」+   +   +
ああ、怖い!恐ろしい話です。これはビデオ屋さんの映画だったら絶対借りません。聖書以外の本だったら読みません。ハッピーエンドでよかったですね!

でもそもそもアブラハムは、なぜこういうことをしようと思ったのか。なぜ自分のいとしい息子を捧げ物にすることを承諾したのか、そのわけについて考えたいと思います。まず、言っておかなければならないことは、アブラハムには、一つのことがはっきり分かったからだと思います。すなわち、ヤハウェが唯一のまことの神であられる、ということです。
神が本当に神であると認めるというのは、定義からして、その仰ることがすべて正しい、というのをも認めることです。神がお求めになることならば、人は当然それに従うべきです。神ですから。これは、はっきりさせたいところです。神の場合は、「してはいけない」ことは何一つない、ということです。「神はそういうことを求めてはいけない」という話はあり得ない、ということです。

神は誤った判断を一切なさらないのです。物事を見誤ることはないのです。少しでも。

だから、わたしたち小さくて、時代や文化に大いに影響され、心の歪めた人間の目から見て「不条理、理不尽」だと思っていても、実はわたしたちの決めることではないわけです。ヨブの話を覚えていますか?ヨブは訴えてみました:「不正!理不尽!」そして神の答えは?お前、何様だと思っているのか?わたしがこの宇宙全体を創造したとき、お前はどこにいたのか?レベルは全然違うのです。

こういうわけで「倫理学」というものを割り引いて捉えないといけません。倫理の弱いところは、倫理を考える人が十分物事を把握していない、その視野は十分広くない、十分客観的に検討していない――というか、それができないのです。だから結果として、いわゆる「倫理原則」をうまく使って、最初から自分で決めたことを正当化してしまうことになることはしばしば起こります。

昨日読んだある記事にこういう言葉がありました:「倫理学者と手品師の仕事は似ている。いずれも、おもな仕事は当たり前のことから目をそらすことだ」と。倫理は、したいことを「していいよ」と訴えつつ、かつその責任を取らない方法になりがちなのです。

アブラハムの倫理的ジレンマを見てみましょう。息子を捧げ物にべきかどうか。うーん、どうかなあ。そのメリット・デメリットを考えましょう...

やはり無理です!そういう問題ではありません。神の示されたご意思は、人間のさまざまな倫理的工作を突き破ってしまいます。み心に従うかどうか、それだけが問われます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて」、と。

しかしながら、神のご意思が十分明確でない場合は、倫理は役に立つかもしれません(例えば終末期のケアに関するさまざまな決定)。でも実を言いますと、もうちょっと曖昧であってほしいところに、神のご意思が十二分明確に示されている場合が多いと思います。例えば:
  • 会社からお金をつまみ食いしていいのか?だめです。
  • 結婚している同僚と寝ていいのか?だめです。
  • 結婚する前、または結婚外の肉体的関係を結んでいいのか?だめです。
  • 通勤電車の人をパンチするところを空想していいのか?だめです。
  • 人の気持ちを盛り上げるために嘘をついていいのか?だめです。
  • 不倫とか暴力がない場合、夫婦を続けなければならないのか?その通り。
  • 胎内の命を守らなければならないのか?その通り。
  • 面倒くさくても年上の父親の世話をしなければならないのか?その通り。
  • 兄嫁を赦さなければならないのか?その通り。

これらのことは全部、聖書で明確に取り上げられているものです。これらについて、神のみ心が分かっています。良く考えようとか、メリット・デメリットを検討する必要は全くありません。わたしたちの唯一のジレンマはこれです:み心に従うか、それかみ心に逆らうか。それだけです。
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でも、アブラハムにはもう一つのことが分かりました。「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22:8)ということ。どうしてそんなことを言えるのでしょうか。

アブラハムがすでに年老いて、年老いた妻のサラとの間で子どもができていなかったとき、神は彼に告げられました。「あなたを多くの国民の父とする」(創世記17:5)。自分の息子、サラとの間で生まれる子を通して、星の数ほどの子孫ができちゃう、と神が告げられたのです。

これは、神のアブラハムへの約束です。最初は、アブラハムにとってやすやすと受け入れられる話ではありませんでした。子ども?100歳の自分と90歳の妻に?でも、一年後、ほら!イサクが生れました。約束は実現されたのです。

だから神が約束を守る方であることは、アブラハムによく分かります。「多くの国民」を息子イサクを通してできることが、神に約束されています。そして神は必ず約束を守る方です。だから「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と言えると思います。

神がお求めになることは、時々大変に思うときがあります。耐え難いと感じるときもあります。でも神は決していたずらしたり、無意味で求めたりすることはございません。

もちろん、これこら何が起こるか、アブラハムにははっきり分かりません。人間は、将来を前もって知りたがるけれども、それは許されていないことです。(マヤの暦のどのこのはすべてデタラメです!)

アブラハムが刃物を手にしたとき、きっとその神への信頼が極端に試されたと思います。試されたけれども、アブラハムは望みを失いませんでした。唯一のまことの神、生きる人と死んだ人の主である神、約束を必ず守ってくださる神に望みをかけ続けたのです。

だからこそアブラハムは「我々の信仰の父」と呼ばれるのです(ローマ4:16)。聖パウロが言います:
「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、[『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』(創世記17:5)]と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」(ローマ4:16)

ヘブライ人への手紙の著者はこういうふうに言います:
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました(創世記21:12)。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブライ11:17)
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もう一つの恐ろしいストーリーをわたしたちは知っています。これもある息子、愛される独り子についてのストーリーです。このストーリーの子も、捧げ物として選ばれるのです。

この子も、木の上に屠られるように定められます。その木をこの子にも背負わせられます。そしてご自分がその木を運ばれます。モリアという山ではなくて、ゴルゴタという丘の上まで。

ところが、このストーリーでは、その子が何も知らないでその捧げられる場所に連れて行かれるのではなくて、自ら進んで、神のみ心に従ってそこまで足を運ばれます。

また、このストーリーでは、天使などが間に入ったり、金属がその子の体を刺し貫く前に止めたりはしません。ギリギリで免れることはありません。いけにえは実行されてしまいます。その子は死なれます。

アブラハム以上にキリストは何も、その命でさえ、惜しまなかったのです。最後の最後まで神に望みをかけ続けられたのです。
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でも、神は約束を守られる方です。生きる人と死んだ人の主です。最終的に理不尽なことを求めたりはなさいません。神は、アブラハムと同じようにイエスへの約束をも守られました。その話はイースターになったらしましょう!

こういう神ですから、神に信頼を、希望をかけることは、どんなときでも必ず賢い選択です。逆に、神を信用しない、ほかのことに最終的な希望を置くことは、愚かな選択です。

逆説ですが、イエスはそういうことを仰っているのではないかなと思います:

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:35)

つまり、いつ、どこ、どの程度神のみ心に従うか、自分で決めようとする人は、結局神とのつながりを切ってしまって、本当の命をいただけなくなってしまうのだ、ということです。逆に、神に身を任せる人、神が計り知れなく恵み深くて慈しみ深い、必ず約束を守る方であると分かって、何があっても神に信頼・希望をかけ続ける人は、神との交わりを大いに味わえる人だ、と。それこそ、永遠に至る命だ、ということだと思います。

「信仰を持つ」というのは、こういうことです。約束を決して敗らない、慈愛深い父に信頼と希望をかけ続けることです。

きっと神が備えてくださる。アブラハムはそう思って、裏切られませんでした。イエスもそう思われて、裏切られませんでした。わたしたちが必要としていることも、きっと神が備えてくださる。その約束をしっかり受け入れて、前向きにこの大斎節を送りたいと思います。