2011年12月29日木曜日

言えること、言えないこと

病院のブレストセンター年末「まとめの会」における、この一年間で亡くなられた患者さんのために一言祈るように頼まれた。

喜んで引き受けた。が、その祈りの内容でちょっと戸惑うことがあった。すなわち、イエス・キリストを主、また救い主として受け入れていなかった人のために、どう祈ればいいか、ということ。

わたしにとって新しい問題ではないが、いろいろ考えさせられた。祈祷書の殆どの祈りは信徒の逝去を前提に書かれている。一つだけ「洗礼を受ける機会がなかった者のため」というものがある。
万民の主、全能の神よ、洗礼によってみ子イエス・キリストの死とよみがえりにあずかる機会を得ないでこの世を去った人たちを顧みてください。どうか主の深い慈しみのうちに彼らを守り、主の全きみ旨を成し遂げてくださいますように、み子、救い主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン
いい祈りだと思うけど、病院の会議という設定で、患者さんと同様にその場にいる殆どの人たちもノンクリスチャンだし、わざわざ洗礼を受けたか受けなかったかという話をするのは、ちょっと乱暴すぎるかな、という気がする。

でも内容は適切だと思う。つまり、聖書を大事にする教会では、ノンクリスチャンの最終的な行く先について言えることと言えないことがある、ということ。

まず言えること、そして大きな声で言うべきことは、これである:

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)
だから、どんな状況でも、神の憐れみに信頼をかけることができる。神のみ心は、すべての人々が救われることだ、ということ。そのために神は、どのタイミングでどの方法でその人その人に働きかけてくださるかは、計り知れないものだと思う。でも、一人一人の人が救われる、真理を知るようになることは、神が望んでおられることだということは確実である。

が、しかし、だからと言って、すべての人は無条件に救われるかというと、それはやはり否定しなければならない。イエスご自身はその可能性を否定なさったのである。
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける」(マタイ25:32)

さらに...
  • 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:26-27)
  • 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネ14:6)
  • イエス・キリストの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録4:12)
ほかにもたくさんある。しかも、上記の「すべての人々が救われることを望んでおられる」というみ言葉の引き続きはこれである:
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(1テモテ2:5)
 
だから?救いはイエス・キリストによるものである、と言わざるを得ない。イエスを主、救い主として受け入れる人は「神の子となる資格が与えられ」(ヨハネ1:12)、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)のである。

それなら、ノンクリスチャンには、果たして望みはあるだろうか。

もちろん、ある!イエスはすべての人の罪のために命を捧げられた。そして:
「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)

結局、わたしたちすべての人の望みの根拠になるのは、神の慈愛のほかならない。

自分の正しい生活とか、何かの決まり文句を一度口にしたことがあるとか、誰かが頭の上に水を注いだことがあるとか、そういうことが天国へのフリーパスになり得ない。

神の驚くべきほど大きな大きな愛の恵みによって、そしてイエス・キリストを通して、人は救われ得るのである。

その恵みが過去、現在、また将来存在するすべての人一人一人に明らかに促されるときがある。そのタイミングは、何とも言えない。生きている間だの、死という区切りを迎える瞬間だの、死んでからのどこかだの、人間には分からないことである。

だから、亡くなった患者さんのためにもちろん祈れるし、祈るべきだと思う。神の慈愛を確信して、そのみ手にゆだねるべきである。すべての命を授かってくださった神は、必ずその命の上に全きの愛のみ胸を行いますように!

ちなみに、ブレストセンターの祈りは次のように考えてきた。いかがでしょうか。
ブレストセンター逝去者記念の祈り
全能の神、すべての命の源である主よ、この世においても次の世においても、主の憐れみと慈しみは絶えることはありません。わたしたちがその治療に関わってきた患者さんのために、主は、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えて世話してくださっていることを知っています。神よ、特にこの一年間で亡くなられたブレストセンターの患者さんを覚えて祈ります(ことに___)。この患者さんを初め、世を去ったすべての人をその創造主、また救い主である神のみ手にゆだねます。主の限りない憐れみと知恵と力をもって、彼らの上に主の全きの愛のみ旨を成し遂げてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン 

2011年12月28日水曜日

our citizenship is in heaven (Philippians 3:20)

I am a huge fan of Brooke Fraser, a young kiwi singer who is also an articulate and passionate Christian poet. In her spare time, she also gets access to clean water for dozens of impoverished communities in Ethiopia and advocates for Rwandan children. You know, that sort of thing.

I've been thinking recently of her "C.S. Lewis Song." In it, she does an astonishingly good job of condensing and putting to music one of Lewis' arguments for God, heaven, faith: namely, that our desire for something higher, better, more permanent, etc. implies the reality of the object of our desire.

Just as the ability to feel hunger and want food implies the existence of food, our longing for union with God, heaven, divine joy implies the existence of those things.
If I find in myself desires nothing in this world can satisfy,
I can only conclude that I was not made for here
If the flesh that I fight is at best only light and momentary,
then of course I'll feel nude when to where I'm destined I'm compared

In other words, it makes no sense for us to have an ingrained desire for something that has no objective reality.

I think atheists would agree: Yes, it makes no sense. It is senseless.

But it takes a lot of blind faith to believe in that degree of senselessness. I'll stick with the much more likely probability that the desire has a real relationship to the thing that can satisfy the desire.

And so if all our money and material comforts can't satisfy us, if success can't satisfy us, if even romantic love and family don't entirely fill up the hole in our hearts, it must be because the hole is God-shaped.

Of course, Lewis was taking his cue from St. Augustine:
"You have made us for yourself, Lord, and our hearts are restless until they rest in you."
But maybe I'm most psyched by the fact that Brooke Fraser knows Lewis and likes him enough to write a song about one of his ideas. He would be well chuffed* to know that--in fact, I imagine he is.

My admiration has almost nothing to do with the fact that she is also stunningly beautiful...

* "chuffed" is New Zealand slang for "pleased and excited"

2011年12月27日火曜日

hopes expressed and realized (Luke 2:15-21)

"On the eighth day, when it was time to circumcise the child, he was named Jesus, the name the angel had given him before he was conceived." (Luke 2:21)
In biblical culture, the naming of a child expresses hopes for the child's future. The kind of character he will have, the kind of things she will accomplish, what kind of road he will travel. And, what kind of world she will live in. The name "Jesus," which means "God saves," was easily in the top five ranking of popular baby names at the time. That's how much the people of God awaited the day of salvation. At first, only Mary and Joseph and the shepherds knew that the salvation of the world had appeared in Jesus of Nazareth. But from them, eventually this good news would spread to the whole world.

希望とその実現(ルカ2:15-21)

「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」(ルカ2:21)
聖書文化では、新生児の命名はその子の将来に対する期待を表わす。どういう性格を持ち、どういう業績を上げて、どういう道を歩んで欲しいか。そしてどのような世の中で生きて欲しいか。「主は我々を救う」を意味をする「イエス」という名前は、当時の『赤ちゃんの名前ランキング』のトップファイブに入るぐらい大人気だった。それほど神の民が救いを待ち望んでいたのである。ところがある日、その救いが実際に現われた。最初、ナザレのイエスが神からの救い主だと分かったのは、母マリアとヨセフと羊飼いたちだけだった。しかし、やがてそれが全世界に知られるようになっていく。

2011年12月24日土曜日

愛に強いられて(ヨハネ3:15、イザヤ53:4-5)

クリスマス・イブ礼拝
2011年12月24日(土)午後7:00
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


クリスマスについて一言お話させていただきたいのですが...その前に、キリスト教を代表して日本の皆さんに向かって、イエス・キリストの誕生日をこんなに盛大にお祝いくださって、心から御礼を申し上げたいと思います!素晴らしいですね。

毎年、日本ではクリスマスがどんどんにぎやかになってきている気がします。イルミネーションだの、クリスマスコンサートだの、パーティーだの、そしてもちろんあっちこっちの店のビッグセールがあります。先週、友人がたこ焼きを買いに行ったら、たこ焼きの「クリスマスパック」なんてあったらしいです!わざわざイエスさまのためにそんなのを...

まあ、正直、何でここまで盛り上がっているかちょっと分からないのですが、教会では、クリスマスという祭りを大事にするのは、キリストの誕生によって、人間は何であるか、神は誰であるか、生きることの意味は何であるかについて大事なことが示されるからです。
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でもまずちょっと違う話をさせていただきます。2-3ヶ月前にある女性と出会ったら、彼女からとても不思議な話を伺いました。(実は、今夜いらっしゃるかもしれません。)ご本人から許可をいただきましたので、少し分かち合いたいと思います。

この女性は脳腫瘍があると診断され、大手術を受けることになりました。手術自体は約10時間かかりました。後で分かった話しですが、手術中、2回も命がとても危なくなったそうです。

でもご本人の経験は全然違いました。ご本人は、麻酔で意識がなくなった後、気づいたら、光に包まれて手術台から浮かび上がっていると言うのです。自分がいる場所は広大な大聖堂のようなところで、壁と天井は真っ白。

そして彼女はどんどん天井に近づいていきます。下を見ると、実は天使に運ばれているのだと分かります。天使は体に触ってはいないけれども、持ち上げているのです。

そして天井が開きました。すると、見よ、上にとても明るい、暖かい空が広がっています。そして彼女は高く上がれば上がるほど、体のすべての痛み、心の辛さ、すべての不安と悩み、すべての苦しみが消えていってしまいます。すべての苦悩から解放されるのです。そして、彼女には分かりました――その明るい空に立ち昇れば、この上ない幸せになるのだ、ということ。

彼女はもう行きたくて仕方がありませんでした。何も怖くなかった、と仰るのです。

ところが、そこでご自分を待っている家族のことを思い出しました。彼女のことを大事にして、手術をとても心配してくれている人。お別れをしたらとても悲しむ人。彼女は、彼らの悲しい顔が見えました。

そこで、もう帰らなくちゃと思ったわけです。心配になって。そして見ていた場面が消えると、気が付いたときには術後室にいました。
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この話を伺ったとき、この人は愛に強いられてこの世に戻ってきたのではないかと思いました。

とても感銘を受けた話です。でも似ているようなことはほかにもあると思います。誰かを愛するとき、自分自身にとても強い「けん引力」がかかってしまうのだと思います。親しい人、特にその人が困っていたり、不安になったり、痛みを覚えたりすると、わたしたちは愛に強いられてその人のところに引っ張られるようなことがあると思います。

小児病棟でも、こういうことがよく見られます。白血病と闘っている子どもの病床から離れることのできない父親、母親がいます。自分たちの健康に気を使わないことが多いので、注意しないといけません。

緩和ケア病棟でも見られます。時折、長い間重い病気と闘ってきた人は、「もう行ってもいい」という思いがあります。でも同時に、未だに大事な人のところに思いが寄せられています。残された人のことばかり心配しています。

日常生活でも、もっと小さなところで同じことがあります。子どもが転んで怪我したときとか、親しい人が悩んでいるとき、苦しんでいるときとか。近寄りたくなるのです。手をつないだり、抱っこしたり、何か言葉を掛けたりしたい。どうにかして慰めてあげたい。良くしてあげたい。

わたしたちもこのように愛に強いらることがあるのです。
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人生の最もつらいことの一つは、良くしてあげたいけれどもどうしようもできないことです。大事な人が慰めを、癒しを必要としているのに、わたしたちはそれを与えられないこと。

それは、単純にこちらには助ける能力がない場合もあります。あるいは、その人から距離的、もしくは精神的に離れていて、相手がわたしたちから助けを受け入れる状況ではない場合もあります。

でも助けてあげたい気持ちは変わりません。こういうときに、人はたまにはすごいことを言います。
「できれば主人の代わりにわたしが上司の怒りの矢面に立ちたい。」
「その人は君ではなくて僕に八つ当たりをすればいいのに...」
「子どもに代わってわたしが癌になりたい。」
「彼女が助かるなら、わたしはもう、死んでもいい...」

このすごさが分かります?つまりそういう人は、愛する人のためなら困難を選ぶ。自ら進んで苦しみを受け入れる。命でさえ惜しまない姿勢を取ろうとしています。できることなら立場を交換したいのです。

人間の愛って、本当にすごいものだと思います。そこまで愛に強いられることがあるのです。

もちろん、残念ながら人と立場を交換することはあまりできません。殆どの場合は、人を救う力がわたしたちにはないのです。

ただ一緒にいて、共にいることで慰めて支えることしかできないのです。
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聖書によれば、人間は神にかたどって造られた。神の姿に似せて造られているのだと言うのです。

逆に考えれば、人間の性質・本性は神の性質・本性の影に過ぎないわけです。意思の自由とか、自分自身を意識していることとか。何よりも愛し得ること。これらの「人間らしい」性質は神の性格を示唆しているものだという話です。

それなら、もし小さくて不完全な人間は、時折このような偉大な愛を示すことができるのであれば、神の完全な愛は遥かに偉大なものだと考えざるを得ないと思います。

わたしたちは、親しい人が怖くなったり、悲しんだり、苦しみ悩んだりするとき、近寄らなければならないと強く感じます。まして神は、不安、悲しみ、苦悩に暮れているこの世の人たちをご覧になるとき、どういう思いがあるのでしょうか。

聖書は言います:「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
  
神のみ子がこの世に来られたのは、苦しみ悩んでいる人たちと共にいるためでした。つまり、わたしたちすべての人間です。わたしたちみんな、ある程度この世の悲しみ、悲劇に巻き込まれているのです。争い、暴力、欲張り、病気、貧困問題がはびこっている世界、しかも大勢の人々の苦痛に無関心でいられる人の心のむなしさに満たされている世界に生きている限り、これらのことにある程度巻き込まれてしまうことです。

神は、愛を込めてお造りになった人たちがこういった困難、困惑に打ちひしがれているのを見ていられなかったのです。神も愛に強いられて、わたしたちに近寄り、共にいることによって慰めることを決められたのです。

イエス・キリストは近寄ってくださる神の愛そのものです。実は、イエスの一つの呼び方は「インマヌエル」となっています。その意味は、「我々と共にいてくださる神」なのです。

でもクリスマスはそれだけの意味ではありません。神のみ子は、わたしたちと共にいるだけではなくて、わたしたちの苦しみを共有するために来られたのです。

キリストは天の計り知れない喜びを脇において、わたしたちの苦悩をご自分のものにして、同じ人間として、人類の一員として同じ生涯を送るために来られたのです。

クリスマスはキリストの誕生を記念する日ですが、やがて十字架の上でそれは重大な局面に達しました。その最期の日、イエスは苦しむ人間と完全に一体化されたのです。腐敗した当局から迫害を受け、仲間に見捨てられ、拷問を受けて十字架にはりつけにされました。生まれたときよりも全く頼りない。体を動かすことすらできない。自分を助けることもできないのです。

しかもこれこそ、イエスがお選びになった運命でした。避けようとしたら十分避けられました。でもそうなさらなかったのです。どうして?愛に強いられていたからです。イエスは困難を選び、自ら進んで苦しみを受け入れ、命でさえ惜しまれなかったのです。それは、わたしたち人間を救うためでした。

そうなんです。つまり、わたしたちがしてあげたいと思ってもできないことは、イエスにはできました。それは、わたしたちと立場を交換することです。ヘンデルの「メサイア」に出て来る預言者イザヤの言葉(53:4-5)は次の通りです:
彼が(=神がお遣わしになった救い主が)
担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。 
彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの[迷っている心]のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 
クリスマスは、神のみ子、この世に派遣された救い主の誕生日をお祝いする祭りです。イエスは「我々と共にいてくださる神」なのです。苦しむとき、怖いとき、つらいときなど、いつどこでもイエスは共にいてくださるのです。

でも、クリスマスのもっと深い意味は、キリストがわたしたちを解放することができる救い主だということです。罪や罪悪感の重荷から解放できます。むなしい世の中に生きる不安と悩みから解放できます。そして大きな慰めと平安を、今、部分的に、そしてやがて完全にもたらしてくださるのです。

今夜わたしたちは天から降って来た愛、わたしたちから離れていられなかった愛をお祝いしています。わたしたち一人一人に近寄り、いやしてくださる愛を感謝し、お祝いしているのです。

2011年12月22日木曜日

神の積極的な治療法

聖路加国際病院クリスマス礼拝
2011年12月20日(火)午後6時
ベンジャミンホール(スターバックス前)


クリスマスは楽しいですね。こうやってパーティーをするし、街角にイルミネーションがあり、サンタさんもプレゼントもあります。

でもそもそも何を祝っているのかというとやはりイエス・キリストの誕生です。

でも、だから何?と問わなければならないと思います。それで...?
今年は、先ほど読まれたイザヤの「彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた」という言葉に非常に感銘を受けました。

クリスマス、イエスの誕生は、この世に対する神の積極的な治療法だった、というふうに考えてもいいのではないかと思いました。

病んでいるこの世をただ見ていられない神が、クリスマスという形で対応なさった、ということです。

病んでいる世の中の病状としては、2千年前も今もあまり変わらないと思いますが、各地の争い、暴力、虐待、欲望、貧困問題などなど。またこれらの人の苦しみへの無関心。そして、病気、深い不安、死そのものと死に対する恐怖。

これらのことは、神にとって耐えられないほど悲しいことです。

これは深刻な問題だ、と神は診断して、そこでわたしたちの苦しみ、悩み、悲しみに対して神は思い切った治療法を決められたのだということです。

その介入は、イエス・キリストと呼ばれる方の誕生...

これは、外科的な介入よりも内科的な介入と言った方がいいと思います。つまり、神のみ子が「わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。中から働きかける治療だったのです。み子を派遣することによって、神は問題の核心を突こうとされたのです。
それは、世の中のさまざまな困難、苦難、困惑のおもな原因となる人々の病んでいる心に直接取り組む方法でした。だからイエスの働きは:
  • 人々を自己本位的な思いから解放すること
  • 神から離れている心を立ち帰らせること
  • 日々の感謝を妨げる体や心の病気を治すこと
  • 社会から仲間はずれされている人の友達になること
こうやってイエス・キリストは、またその弟子たち、またその弟子たちの弟子たちは、少しずつ、一人一人の心、一つ一つのコミュニティの本来の姿を取り戻していったわけです。

これは病んでいるこの世に対する神の積極的な治療法だと思います。

わたしたちも、この治療法に参与する恵みが与えられています。この病院はイエス・キリストの働きを果たすために存在しているわけです。この病院に関わっている一人一人の人として、病んでいる世の中を少しずつ良くしていくように呼び集められているのです。

この大事な働きを果たしていこうとするときに、最もうまくいく方法は、今日、わたしたちがその誕生日をお祝いしているイエス・キリストの助けを頼りにしながら、祈りながら頑張っていくことだと思います。

そういう思いを込めて皆さんに心からMerry Christmasを申し上げます。

2011年12月18日日曜日

必ず約束を守る神(イザヤ書42:1-12)

降臨第4主日 夕の礼拝

好きなアメリカンドラマの一つ:CSIマイアミ。警察の科学捜査の話。好きな理由の一つ:捜査本部長である主人公はまさに「正義の味方」。とても頼もしい人。いったん何か約束したら、必ずそれおを守るということが分かるから。

助けを求めに来る人に「必ずこの問題を解決するぞ」や悪いやつに「お前を捕まえるぞ」と言うと、間違いなくそれを成し遂げるのです。

それを知っているから、彼がそういう発言をするとき、言葉に非常に重みがある。また、ホッとする。彼がそう言うならきっと大丈夫。

こちら見ている人もそう思うけど、ドラマの中の人たちは何となくそれを直感しているような演技をする。

彼は必ず言ったことを守るような男だから、きっと大丈夫。言っただけで、希望が沸いて来る。今の困難から抜け出せるときが近い。あるいは悪いやつに天罰が下る日が近い!

そのとき、見た感じでは、何も変わっていない。けど、見る目が変わっている。約束があるから。
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でもそれはテレビで、現実の世界では、そういう頼もしい人は少ない。約束したら、必ずそれを守る、成し遂げる人は果たしているのでしょうか。

政治家はどうでしょう?政治家は基本的に自分の立場を守るのに必死になっている。そのために何でも約束する。しかも、自分の力で(あるいは国全体の力でも)どうしようもできないことに対してまで約束したりする。

頼もしくない、全然。

企業はどうでしょう?企業はCMとかでは、ものすごいことを約束する。この車を買ったら幸せになる。この商品を手に入れると人生は充実になる。ハワイで旅行したらロマンスを体験できる。

もちろん、嘘ばっかり。

結婚式でも偉い約束をしてもらっているけど、実際はどうでしょう。
「幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります」とだって。

最後までこれがずっとできる人はそんなにいない気がする...神の助けを得ながら、何とかなれるかもしれませんが、ずっと、むらなく、相手をそういうふうに大事にできる人は、いる?

アメリカの離婚率は5割になっている。日本は4割弱だそうです。離婚まで行かなくても、十分にこの大きな約束を守れる夫婦はそんなに多くはないと思います(自分を含めて!)
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ところが、神はいったん約束をなさったら、それを絶対守ってくださる、と聖書は一貫して教えてくれる。捜査本部長よりも遥かに頼もしい方です!

そして神はイザヤとかに一つ大きな約束をなさいました。それは、救い主を送るぞ、ということ。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ書42:1)

この派遣される「僕」の仕事は何でしょう?光として立ち上がること。そして、「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す。」(イザヤ書42:6-7)

そしてその対象は?全世界です。「地の果て」まで、「島々」「諸国」「地の上に住むすべての人々」に、神は心を止めてくださっているのです。
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そしてついに、約束のとおり、神は救い主を与えてくださいました。クリスマスはそういう話です。神はご自分のみ子を送ってくださいました。

イザヤに与えられた言葉は、再びイエスの洗礼の場面で語られた:
「『見よ、これはわたしの愛する子、わたし喜び迎える者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3:17)

そしてイエスがその「神の国運動」を始めようされたとき、ご自分のふるさとのナザレに帰られてこういう宣言をなさいました:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)

それはイエスのミッションでした。イザヤとかで示された神の約束を成就することがイエスのミッションでした。

そしてイエスも、一つの大きな約束しました。それは、聖霊を通してご自分に結ばれている人たちと共にいてくださる、ということ。

これは教会そのものです。イエスに結ばれている、イエスと共に生きる人たち。

そしてこのことによって、イザヤに授けられた約束はどんどん実現されて来たわけ。今日に至るまで、地の果てまで、島々、諸国、地の上に住むすべての人々に――この日本という島に住んでいるわたしたちにも、愛の光がもたらされています。

今でも、「見ることのできない目を開いて」、人生に迷っている人、道が見えなくなってきた人、行き詰っている人々を導いてくださっています。

「捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出して」、さまざまな束縛や罪から、心の痛みから大勢の人々を救い出してくださっています。
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イエスが教えたことやなさったことに照らされて、少しずつ神の性格が分かっていくと、少しホッとすることがある。神がそう仰るならきっと大丈夫。神は必ず仰ったことを守るような方だから。

なので神の約束を知っているだけで、希望が持てる。

見た感じでは、何も変わっていないかもしれませんが、見る目が変わる。神の約束があるから。今の困難から抜け出せるときが近い。その日が必ずやって来る。世の中のさまざまな闇の力も、こう見えても最終的に一掃される日が近い!

しかも、政治家のように不可能なことを約束するのではない。
「神にできないことは何一つない」(ルカ1:36)と今朝の福音書で読まれました。

また、偽物幸福とか幻想、むなしくて、本当の幸せにつながらないことを約束するのではなくて、本当の、深い、いつまでも続く喜びを約束なさっているのです。

その神の約束に信頼をかけて、続けて祈りを捧げたいと思います。

2011年12月17日土曜日

onward and upward

Here is a nice news segment about the Anglican Church in North America, and how it is growing, especially among college students. The report features a bit about my friend Matt and the church where he and his wife serve, Church of the Good Shepherd in Binghamton, New York, which I had the great pleasure of visiting a few months ago.

Very encouraging stuff...

center of gravity

Some friends were recently talking on Facebook about an atheist's view of death. I thought I could sense an undercurrent of hostility (!) toward Christian faith for being preoccupied with "the afterlife" and therefore not really engaged in this life, this world. "The heavenly minded are no earthly good" kind of vibe.

But that's quite different from my understanding of the Christian faith. I wrote:

The center of gravity for my own faith and, I would argue strongly, of the gospel, is not "life after death" but rather the quality of living, character, and relationships in this life (though not bounded by this life). In other words, authentic human flourishing and growth in virtue. At the same time, I can understand in an age or society dominated by war, famine, and plague, why the accent might shift to "a better world after this one." And, as someone who works on a pediatrics oncology ward, the hope of heaven has never been so visceral to me as it is now. Still, Jesus said the kingdom of God is among you, in the here and now. Love calls us to the things of this world.

自分自身の信仰の中心は、そして福音の中心でもあると主張したいのだが、「死後の命」ではなくて、むしろこの世における生き方、人格、人間関係の質にあると思う。(まあ、この世でだけの話ではないけど)。つまり、まことの人間の繁栄と徳における成長に関わるものである。同時に、戦争や飢饉や伝染病だらけの時代、社会の中で、どうして「より良いあの世」への関心が高まるか分からないわけではない。なお、小児ガンの病棟に関わっている者として、わたしはかつてないほど、天国への望みを「はらわたで」抱いているのである。しかし、イエスが仰ったのは、神の国はあなたがたの間にある、今、ここで、と。わたしたちは愛によってこの世のことにこそ呼ばれるのである。
That last sentence is the title of an excellent poem by Richard Wilbur, a former poet laureate in the US. You can see him reading the poem here. And the poem itself is below. The story is about a man woken from a sleep in New York by the sound of a neighbor hanging laundry out to dry. The sleeper doesn't want to wake up and return to the world of the day-to-day, but he does, finally. "The soul descends once more in bitter
love / To accept the waking body." Because...

Love Calls Us To The Things Of This World

The eyes open to a cry of pulleys,
And spirited from sleep, the astounded
soul
Hangs for a moment bodiless and
simple
As false dawn.
Outside the open window
The morning air is all awash with
angels.

Some are in bed-sheets, some are
in blouses,
Some are in smocks: but truly there
they are.
Now they are rising together in calm
swells
Of halcyon feeling, filling whatever they
wear
With the deep joy of their impersonal
breathing;

Now they are flying in place,
conveying
The terrible speed of their
omnipresence, moving
And staying like white water; and now
of a sudden
They swoon down in so rapt a quiet
That nobody seems to be there.
The soul shrinks

From all that it is about to remember,
From the punctual rape of every
blessed day,
And cries,
"Oh, let there be nothing on
earth but laundry,
Nothing but rosy hands in the rising
steam
And clear dances done in the sight of
heaven."

Yet, as the sun acknowledges
With a warm look the world's hunks
and colors,
The soul descends once more in bitter
love
To accept the waking body, saying now
In a changed voice as the man yawns
and rises,

"Bring them down from their ruddy
gallows;
Let there be clean linen for the backs
of thieves;
Let lovers go fresh and sweet to be
undone,
And the heaviest nuns walk in a pure
floating
Of dark habits,
keeping their difficult
balance." 

2011年12月6日火曜日

reflections on a girl's funeral

I took the stairs down to the hospital mortuary feeling slightly nauseous. It was probably not so much the dread of seeing Sara (not her real name) as fear of facing the grief of her family.

When a child dies, nobody "comes to terms" with it. None of the soothing platitudes make a good fit. "It was her time." "She led a full life." "At least she went peacefully." I've never heard somebody try to put a positive spin on things. Nobody's okay with it.
+   +   +
When I saw her lying there, the breath went out of me like I'd been sucker punched.

She was so small, and still.

Not too long before, we had been exchanging slightly wary nods on the ward. I find it hard to establish a rapport with the girls in the peds ward, at least the older ones. I never know what to say. No more than I did when I was a teenager.

Plus, most of the time the girls stay behind their pink curtains, which might as well be as thick as castle stones. Their own worlds. I can never think up a good excuse to intrude.

So whenever I do get the chance, I make eye contact and nod and smile, and keep waiting for God to create opportunities to be helpful, if I can. Meanwhile I pray, every day, from the sidelines.
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The blown-up picture showed Sara with Luke, her beagle. (Her mother said it was "coincidence" that she happened to choose to give her dog the name of the hospital where she would spend the last years of her life. Yeah, right.)

In the photo she was maybe eleven or twelve. Sitting on grass, a park somewhere. Smiling unself-consciously, just because she was with Luke, and it was a good day.

In the photo, there was not even the hint of a shadow of cancer in her eyes.
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At the wake, I was looking out at all of Sara's schoolfriends who came. Pretty much all of her classmates from middleschool, I learned later. All the way from out in West Tokyo, more than an hour away by train.

Now, except for Sara, they had all gone off to various highschools, as freshmen, so they were wearing different school uniforms. But they all looked pretty much the same. Most of the girls' skirts were too short. Most of the boys' hair was too long and scruffy. Typical high school kids, in other words.

As each one came up to lay a flower in front of Sara's picture, pretty much all the girls were crying. Some were in bad shape. All the boys looked uncomfortable. A few of them had "deer in the headlights" expressions.

As I watched them, I felt a kind of anger welling up inside. Or maybe it was sadness, or frustration. I don't know, really. A tightening in the pit of the stomach.

"These kids' shouldn't have to be here," I thought. "They shouldn't have to be here, and Sara shouldn't have to be in this pine box up here. She should be out there, with them. They should all be hanging out in a park somewhere, or at MacDonald's. Copying each others' homework. Girls talking about boys. Boys talking about sports. Nobody should be here."
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The funeral was quieter. Most of Sara's friends were back in school.

I nearly lost it halfway through the sermon. I was talking about Sara's courage, and the courage of her family. And suddenly I was struck by the sheer unfairness of what each of them had been called to deal with. And for what end? All that sacrifice and determination and and love-in-action--and still she died.

Tears sprang into my eyes. I couldn't see my sermon text. My nose started running. I felt like an idiot. Somehow I pushed on and got through.
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Sara's father and little brother rode in the Hearse to the crematorium. Her mother drove herself. Somehow, that struck me as strange. So quotidien.
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While waiting at the crematorium, the girl's mother told me she found out from the Chapel website that she (the mother) and I were the same age. We both smiled at that. But under the surface of that smile, feelings so shadowy and complex that I couldn't begin to sort through them.

Two forty-somethings, sitting down having tea. Her oldest child in a furnace downstairs.
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As I watched them put Sara's bones into the white ceramic urn, I thought: Well, we finally managed to destroy this particular batch of cancer cells. And all it cost was...
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Blessed Mary, you know the pain of losing a child. Yea, the sword of grief has pierced through thine own soul also. Pray for the family of Sara, and for us all. Pray for your Son to come again, and soon.

なぜいやしの祈りをするのか

2011年12月4日の17:00で初めて試みた「いやしの祈り」夕の礼拝でのトーク...

なぜ、今夜の「いやしの祈り」をするのかというと、おもに3つの理由があると思う。

① イエスご自身がいやしの祈りをものすごく大事にしておられたから...

ペテロがイエスのキャリアをまとめる:
「神は、聖霊と力によって[ナザレのイエス]を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

イエスの働きの中でいやしが何よりも大事にされていたのである。

② イエスの弟子たちもその働きをそのまま引き継いだから...

今日の聖書箇所=使徒言行録3:1-10。聖霊がくだってきた間もなくの話だが、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な人のために祈り、その人が治った。

「イエスの名によって」と書いてある。聖書では、人の名によってするというのは、その人の権威・権力を持って、その代わりにする、という意味。

教会はイエスの権威・権力を授かっているので、いやしの祈りに励む。

③ イエスはその教会に命じられたから...

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい...[そうする人たちには]次のようなしるしが伴う...病人に手を置けば治る。」(マコ16:15a, 17, 18b)

イエスに派遣されているから、わたしたちはいやしのために祈るのである。

でも、何でこんなにいやしを強調されるのか?

イエスは一生懸命に「神の国」を伝えようとしておられた。

「神の国は近づいた!」それは、イエスご自分のメッセージでもあり、弟子たちを派遣したときに彼らに託したメッセージでもある。どこかに行ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10:9)。

神の国とは何なのかというと、神の憐れみと慈しみが現されること。神が望んでいらっしゃることが実現されること。

これを言葉だけでは伝わらない。実感してもらえるためにイエスはいやしに力を注がれたのである。

神の国が近づくと、事柄が変わるのだ。目に見えることである。神の国は、人の人生にインパクトがある

何よりも、人がいやされる!体と心と魂がいやされるのである。
体のいやしとは、病、痛み、人に仕えることを妨げる苦しみが取り除かれる。
心のいやしとは、孤独、絶望、不安が取り除かれる。
魂のいやしとは、神から離れている思い、罪に苦しんでいる思い、人とうまく行かないことがが取り除かれる。

つまり、その人の本来のイキイキとした姿が取り戻されることである。

この病院や看護大学も同じビジョンを持っている。つまり、人間の幸福、平安、喜び、健康(=well-being)

このビジョンはそもも神の国のビジョン、神の憐れみと慈しみを受け入れた人たちの間で生まれたビジョンなのである。

今夜わたしたちが望んでいるのは、神の国が目に見える形になること。それだけである。魔術でも、ただのフィーリングや雰囲気でもない。単純に、神がわたしたちの間で働き、体と心と魂の本来の元気な姿を取り戻してくださるように願い求めたいと思う。

2011年12月4日日曜日

in the system

Working in a hospital, one thing I've discovered is: medical records are never destroyed. It doesn't matter if the patient dies, or moves to the North Pole, or gets abducted by aliens. Once a record is created, it's there in the system. Until the end of the world.

One further oddity about medical records, at least where I work, is that they never stop counting your age. When a patient dies, of course the pronouncement of death is noted in the chart. But the record continues to show the patient's current age, as if he or she were still alive.

I think that's an interesting analogy for human existence. Once we receive life in the womb, we are "in God's system"--forever. Each chapter in the story of our lives is recorded indelibly in God's memory. Just like the memories of those we care about stay with us--except that, unlike us, God's memory is perfect and never fails.

And even when we die, when our bodies finally break down, we are not deleted from the mind of God. On the contrary, we remain in Him, and our stories continue to be recorded. Because to God, we are still alive. "Now he is not God of the dead, but of the living, for all live to him" (Luke 20:38).

The story that God wants to tell through us goes on--even after the end of the world.

2011年12月1日木曜日

教会の重要な務め:いやしの祈り

2011年11月27日発刊の「チャペルニュース」に出た巻頭メッセージです...

来る12月から、このチャペルでは月一回「いやしの祈り」という新しい礼拝を始めようと計画しています。毎月、第1日曜日午後5時から、トイスラーホールにて行う予定です(第1主日の「夕の礼拝」の代わりになります)。

大体いつもの夕の礼拝と同じ流れの中で、祈りを希望する方一人一人のために司式者が手を置いて祈るという時間を取る、というわりとシンプルな礼拝を予定しています。

いやしのために祈るというのは、極めて重要なことだと思います。イエスご自身がその働きの中でとても大事にされたことです。また、その弟子たちを派遣なさったとき、イエスは人々のいやしのために祈りなさいと命じられました(ルカ九・二、十・九など)。そしてご復活後でも、そのいやしの祈りは弟子たちによって引き続き行われました。このように二千年間にわたり、教会はいつでもこの働きを続けてきたのです。

聖書では、イエスの弟子の一人である聖ヤコブがこう書きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブ五・十四)。教会に来ていやしの祈りを求めることは、まさにこういうことでしょう。

教会の祈りはあくまでも神の恵みを求めることであって、人はその器に過ぎません。祈ってもらうとき、何か感じる人もいれば、そうでない人もいます。いずれにしても、神が共におられ、わたしたちの祈りを聞き入れてくださること、そしてわたしたち一人一人に最もふさわしい形でのいやしを喜んで与えてくださることを信じています。

本当の祈りは「ご利益」ではなく、ただ単に心の望みを神に言い表すことです。わたしたちは体のいやしを願っても、神はその病を残し、新しいことに気づく機会や心を向け直す機会として用いてくださる場合もあります。つまり、わたしたちが想像していた「いやし」とは違う恵みが与えられることもあります。それを素直に受け止めることは、神に求められる信仰心と言えましょう。

なお、医学分野と同じくいやしの祈りでも、即座に改善が見られる場合もあれば、時間をかけて、繰り返し祈ってもらう中で改善に向かう場合もあります。いずれにしても、神の望みはわたしたちの健康、平安、喜びであり、また赦し合える心、愛し合える心を持つことである――つまり、自らの本来の姿が取り戻されることです。こういった神の慈愛を見詰めて、あきらめずに自分のために、そして他人のために祈り続け、友の祈りを願い続けることが大切です。

当チャペルの新しい働きとなるこの「いやしの祈り」のために祈ってくだされば幸いです。

two kinds of slow

"The Lord is not slow to fulfill his promise as some count slowness, but is patient toward you, not wishing that any should perish, but that all should reach repentance." (2 Peter 3:9)

"Sorry." "It's okay." Much of man's fellowship with God circles around these two words. We repent. God forgives us. But when we do, our respective attitudes are miles apart. So often we manage to pout even while we repent, and to seek forgiveness even while only half believing we need it. We grudgingly admit our sin, all the time aware of the much greater sin of others. We are slow to turn our hearts back to God. God is slow, too, but slow to anger. In forgiving us, God is as swift as lightning and as unstinting as a heavy downpour. Like a lover, His heart is set on making things right with us.

両方は遅い!

「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペテロ3:-9)

「...ごめんなさい。」「いいよ。」人間と神との交わりはこの二つの言葉の周りを巡る。わたしたちは悔い改める。神は赦してくださる。でもそのとき、お互いの態度はだいぶ違う。わたしたちはむくれながら悔い改め、赦しが必要ないと半分思いながら赦しを求めることが多い。自分の罪をしぶしぶ認めながら、他人のもっと大きな罪をずっと意識する。神に心を向け直すのに遅い。神も遅い。怒ることには。赦すことには、神が稲妻よりも速く、大雨よりも惜しまない。恋人のように、わたしたちとの仲直りに一心であられる。

2011年11月23日水曜日

deck chair, titanic

An American priest once told me about a vision he had. He was a down to earth kind of guy, not really given to visions. But he told me about what he believed was a real vision from God, which happened while he was at a gathering of clergy in his Diocese (which rhymes with Kerjin-ya).

In the vision his fellow clergy were sitting around a table, passing around a huge mason jar. Everybody was stuffing the jar with cash. When the jar was full, somebody took it and started squirting lighter fluid into it. Then, they set it on fire. Everybody watched the cash burn.

The priest who told me about it was horrified: You're burning the money! This is a waste! This is sinful!

His interpretation: The clergy gatherings were a complete waste of time and energy. From that day, he stopped going.

I was thinking of his vision at the Tokyo diocesan synod today. Over a hundred clergy and lay people together from 9:00 a.m. to 5:00 p.m. And what did we accomplish that will have any meaningful impact on anyone's life? Hmm...

The highlight of the day for me was the opening prayer, which includes these words:
Increase the numbers of those who believe in Thee, heal those who are troubled in mind or body, bless the children, restore those who have fallen into evil and turn them toward the good, bring back those who have wandered far from Thee, forgive those who repent, and grant that all who live in this land may share in your salvation.
The rest of the day had absolutely nothing to do with any of those things. Instead, we rearranged deck chairs on the Titanic. Hearing reports from a dozen committees. Changing the way the diocesan tax (I mean, assessment) is calculated. Drawing down more funds to cover expenses.

The last order of business was a resolution to send the Government some Statement about getting rid of nuclear power plants. I never speak at these meetings, but I stood up to speak against this resolution--because the drafters didn't manage to craft the actual language we were supposed to send.

I don't know whether the government should abandon nuclear energy. I do know neither the government nor anyone else in Japan will give a flying fig about what the Tokyo Diocese of the Nippon Sei Ko Kai has to say about it.

We represent less than 5,000 people in a country of 120 million. We should be worried about growing in holiness, proclaiming the Gospel, loving our neighbors--you know, living as Christians.

Not sending out meaningless statements on diocesan letterhead. And not wasting a whole day focusing on nothing of substance.

2011年11月11日金曜日

and I mean to be one too (1 john 3:1-3)

Back at my home church of St. Alban's last Sunday. Got to preach in English for the first time in a while! They were observing the Feast of All Saint's that Sunday.

We're celebrating All Saints today. We're actually five days late. Somehow we manage to observe Halloween on October 31, but find it harder to celebrate the feast of All Saints on it's proper day, November 1...

Oh well, better late than never!

DO YOU WANT TO BE A SAINT? I remember a song we used to sing in Church when I was a child (singing): "I sing a song of the saints of God, / patient and brave and true, / who toiled and fought and lived and died / for the Lord they loved and knew."

Do you know that song? It goes on to list a lot of different vocations: One was a doctor, one was a queen, one was a soldier, one was a priest, etc.

The last words were (singing): "...and I mean to be one, too."

The question I want to ask today is: Do you? Mean to be a saint, that is?

CREATURES, BUT NOT CHILDRENSometimes you hear well-meaning Christians say things like "every person is a child of God." It sounds nice. I suspect such statements come from a desire to affirm the dignity and value of every person, and not to come off as arrogant or closed-minded.

These are good desires. We should affirm the dignity and value of every person. We shouldn't be arrogant or closed-minded

But when we say "every person is a child of God," I think we're claiming more than what the Bible allows us to claim. And when we start going beyond what God has revealed to us, we run the risk of actually obscuring the truth, replacing reality as it is with our own preferred version of reality.

And if we start out with a false or distorted version of reality, we have far less chance of making smart choices about things that really matter.

I think we can say with confidence that every person is a CREATURE of God, made by God, in His image, and therefore with inherent dignity. And we can go further and claim that every person is LOVED by God. "For God so loved the world (which means all people in it) that He gave His only begotten Son." (John 3:16). 

But I think we're on very shaky ground when we say every person is a child of God...

Sons and daughters love their parents and seek to please them, make them proud. They seek ways to be helpful to their parents. They look to their parents for direction. They are quick to obey.

(That is to say, good children are quick to obey. My children, well...not so much. When I tell my seven-year-old to take his foot out of his sister's ear, I mean "now" but he thinks, "in a few minutes, when it gets boring.")

Sons and daughters come to bear a family resemblance, in terms of the way they speak and act, and set their priorities. Sons and daughters mature in the character of their parents.

In this sense, the Bible very clearly says human beings are NOT children of God. We do not seek to please Him and serve Him in the world. We do not resemble God in our words and actions. We do not reflect God's character.

At the very least, I think we have to say that, if are children of God, we are children who have turned our backs on our home, and squandered our inheritance, and are living as prodigal sons and daughters in a far country.

Like the prodigal son in Jesus' parable, if we are honest most of us would have to confess: "Father, I have sinned against heaven and before you. I am no longer worthy to be called your son" (Luke 15:21).

I know that's been true of my life.

EVEN SO, CALLED CHILDRENThe amazingly good news of Jesus Christ is stated straight out in our Epistle today: "See what love the Father has given us, that we should be called children of God." (3:1)

I want you to take some time simply to savor that. "See what love the Father has given us, that we should be called children of God."

Even people like us, unworthy as we are, can be called children of God--and that is all down, not to anything we do or don't do, but to the sheer, incredible love of the Father. And because God in His love has called us His children, "that is now what we are."

Please get this, because it's important: We WERE NOT children of God, we WEREN'T WORTHY to be called His children, but now we ARE His children because out of love He has CHOSEN TO CALL us His children.

At the beginning of his Gospel, John puts it this way: "To all who have received [Jesus Christ]--those who believe in his name--he has given the right to become God's children." (John 1:12)

Notice there are no conditions attached to this. "To ALL who have received Jesus."

You can't get more inclusive than that. There is no discrimination here. Nobody is shut out or told "you can't belong."

In biblical terms, the "name" of Jesus signifies the meaning of His life work, and above all His atoning death on the cross. Jesus' name literally means "God saves," and to believe in His name is to bet the farm on the salvation He won for us through His death.

When Jesus came into the world, in fact, He was traveling into the far country where all of us prodigal sons and daughters live, far away from the love of the Father, spiritually starving, morally impoverished, dishonored, disgraced, caught up in a cycle of wounding and sorrow and selfishness and hard-heartedness.

Jesus came into this far country to lead us all home again. The cross became the road home for us.

You don't have to understand exactly how that works--it's hard for me to wrap my head around it a lot of the time--you just have to know that it was for you, too, and receive the gift of salvation from His hands.

CHILDREN, AND SO BECOMING SAINTSSo, because of God's love reaching out to us through Jesus Christ, we have been put into a new status with God: "Beloved, we are God's children now" (1 John 3:2) .

But the Good News doesn't end there:
"Beloved, we are God's children now; what we will be has not yet been revealed. What we do know is this: when Jesus is revealed, we will be like him, for we will see him as he is. And all who have this hope in him purify themselves, just as he is pure." (3:2-3)

We are children of God, and as His children, we are all heading in a certain direction. The details of where we're going aren't clear. There are probably lots of things we can't fully understand from our present vantage point. What's important is that we will be like Jesus.

John talks about "purifying" ourselves. I don't know about you, but hearing the word "purity" instantly makes me think of goody-goody, holier-than-thou types—the kind of people I tend to want to avoid.

(I think this is one of the devil's linguistic victories, actually, to associate perfectly good words like "purity" with mostly negative connotations. Kind of like "holy" is associated with "holier-than-thou" and "righteous" morphs into "self-righteous".)

So it helped me to me as I was thinking about this sermon to focus the phrase "just as He is pure." Just as Jesus is pure. I think of Jesus as someone who was able to laugh from the belly, but without mockery. Who was brilliant without being cynical. Shrewd without being jaded. Who understood the ways of the world and of the human heart better than anyone else on earth, but was always capable of experiencing simple joys.

Jesus said: "Whoever does not receive the kingdom of God as a little child will never enter it" (Mark 10:15, Luke 18:17)

Maybe part of being a child of God means recovering this kind of purity--the ability to enjoy the simple blessings of life, the ability to take life as it comes...and the ability to obey in small, daily things.

Where we are heading is on a need-to-know basis. Simple obedience is all that's expected of us. (I'll date myself if I draw a comparison to Karate Kid: Wash on. Wash off. Or in the new Karate Kid--actually Kung Fu Kid: Put on jacket. Take off jacket. The boy didn't know what the destination was. He simply had to obey.)

Earlier in his Letter, John wrote: "Whoever says, 'I abide in Christ,' ought to walk just as he walked" (2:6). Here is where the Sermon on the Mount is PURE GOLD to a child of God, seeking to walk as Christ walked.

We read the introduction to the Sermon on the Mount this morning, the so-called "Beatitudes" of chapter 5. The Sermon goes on through chapter 7.

The Sermon on the Mount is a roadmap for living life with a child's heart, a child's purity. It's kind of like a GPS navigation system for aspiring to Christlikeness. It marks off the road of purity and joy, and it also warns against the dead ends and dangers of the world, which lead us away from God.

Leon Bloy, a 20th century French writer, once said “the only tragedy in life is not to become a saint.” Becoming a saint is about realizing our deepest, greatest potential, becoming who we were truly destined to be. What a shame it would be to miss out on that.

At the end of the day, becoming a saint is not about what you do--you can be a doctor, or a queen, or a soldier, or a priest, or whatever--but it's about how much love you do it with. And God--who is Love, as John writes in this letter--who comes to dwell with His children, and in us, is always ready to give us His love to do all the things we do to please Him.

The saint, the child of God who, with God's help, tries and keeps trying to walk just as Christ walked, has this to look forward to: He, she will see God as He is. And God is more beautiful, more delightful, more satisfying, than anything we can possibly imagine.

The saints we remember today are already there! Do you mean to be one too?

2011年11月9日水曜日

Sveiks! to my Latvian readers

From time to time, I check the record of traffic to Still a Long Way Off.

As far as I know, there are about four people in Japan who know about this blog. One of them is my wife. And even fewer people in the States (although my friend Anne at An Undercurrent of Hostility kindly linked to me from her blog--I will return the favor when I can work out how to...)

With the global reach of Internet search engines, I'm not surprised to get the occasional random visitor. I seem to get a lot of Japanese-language visitors who are searching on particular Bible passages.

I get the occasional European or Latin American visitor.

I get a fairly steady, tiny trickle of visitors from South Korea (감사합니다)

But I am mystified as to why I suddenly had 30--thirty!--visitors from Latvia last week. Or maybe it was one Latvian guy who kept coming back for seconds? Or better yet, a beautiful Latvian maiden desperate for theological enlightenment?

Seriously, why the sudden interest? Did my secret past as a CIA spy operating in Eastern Europe suddenly turn up on Wikileaks? Does the word "Kevin" mean something amusing in Latvian? Did I do something horribly offensive?

Well, all I can say is: Paldies! Let me know what you think, and why I had the pleasure of your visit.

Uz redzēšanos! Ceru, ka drīz atkal tiksimies!

2011年11月8日火曜日

天国では結婚式がない(ルカ20:35)

今週の聖書勉強会、ルカによる福音書20章の準備から...

「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」(ルカ20:35)
かの日、他者と一体となることへの切望は廃れるのではなくて成就されるのである。結婚の神秘は、天上の現実を指し示す地上のしるしに過ぎない。天の国に至れば、もはやそのしるしは必要でない。「小羊の婚宴」(ヨハネの黙示録19:7)において、わたしたちが望んでいる愛の結び付きは完全なものにされる。キリストに結ばれている人たちは互いに結び合わされ、贖われた者のコミュニティ、神の聖なる都、小羊の花嫁となるのである。地上で夫婦が一体となる奇跡は、このことの前兆となっている(エフェソ5:31-32)。これは、わたしたちにとって全く新しい経験にはなるが、今の世では夫婦が味わう深くて親しい、子づくりにつながり得る結合とは見分けのつく類似性はあるであろう。

 
(ヨハネ・パウロ第二世の「体の神学」を説き明かすクリストファー・ウェストのホームページを参照しました。特にこの記事:"What is the Theology of the Body & Why is it Changing so Many Lives?")

no marrying in heaven (Luke 20:35)

From my study of Luke 20 this week...

"Those who are considered worthy of taking part in the age to come and in the resurrection from the dead will neither marry nor be given in marriage." (Luke 20:35)
On that day, our longing for union will not be jettisoned--it will be fulfilled. The mystery of marriage is merely an earthly sign of the heavenly reality. When we are in heaven, we will no longer need signs. The "marriage feast of the Lamb" (Rev 19:7)--the union of love we all seek--will be consummated. All who are bound to Christ will be bound to one another, forming the community of the redeemed, the holy city of God, the Bride of the Lamb, who is Christ. The miracle of becoming one flesh that husband and wife experience on earth is a foreshadowing of this (Eph 5:31-32). For us, this will be a completely new experience, but it will also bear a recognizable resemblance to the deep, intimate, child-producing union experienced by husband and wife in this life.  
 
h/t Christopher West's website dedicated to Pope John Paul II's "Theology of the Body." See the article "What is the Theology of the Body & Why is it Changing so Many Lives?"

2011年11月4日金曜日

left behind: tsunami stories (V)

A volunteer from the nursing college was visiting an evacuation shelter a couple of months after the tsunami. There, she met an elderly couple. Both of them had mobility issues due to their legs.

When the earthquake struck, they were at home with their daughter. As the tsunami warnings started sounding, the daughter grew worried about her son, their grandson, and decided to go pick him up.

She helped both her parents get up on the low table in the dining room, in case the waters came in and the floor got wet. Then she set out in her car to find her son.

The tsunami came rushing into their house, and the old couple found themselves being lifted up, along with the table, all the way to the ceiling. Like a raft.

The water was about to engulf them, too, and they were sure they were going to drown. But then it suddenly receded, setting the table gently back down on the floor again.

Although the inside of the house was in shambles, the two of them were wet but unharmed.

But their daughter and grandson never came home.

The grandmother couldn't stop crying as she related this story in the shelter. "It should've been us who died," she kept repeating. 

The grandfather just kept rubbing his useless legs, saying nothing.

the wisdom of babes

Chaplain's Message from the November 2011 issue of "Akarui Mado (Bright Window)", the hospital's staff-oriented newsletter.

Before I became a father, I really didn't pay much attention to babies. I had never really spent much time around them, actually. Guys don't usually spend hours fawning over the newborn children of their friends.

I thought babies were cute, sure. Like puppies or harp seals or those Kobito Zukan (gnome) characters. Cute, but not all that interesting. And I figured, in the end, their cuteness was probably outweighed by stinky diapers and sleep deprivation and endless screaming.

But then my first child was born, and I got to spend time with a baby for the first time. I got to hold him, and rock him to sleep, and give him the bottle, and listen to his little breathing sounds. I got to let him sleep on my chest. He rode on my shoulders.

And I had to change lots of diapers and lose sleep and put up with screaming. But I didn't mind so much.

I discovered that this baby was fascinating. That all babies are fascinating. They are little mysteries. They never get boring.

But babies grow up and become Little People. Still fun to be with, to be sure, but not nearly so mysterious.

Recently I got the chance to hold my friend's seven-month-old daughter at a church festival. She was very calm, not nervous around strangers at all. She was content to let me hold her and walk around.

(I went around introducing this very Asian-looking little girl as my daughter—"She takes after me, don't you think?" and enjoyed seeing the confused look on people's faces.)

One of the things I find so interesting about babies is their utter acceptance of reality, and their total trust in their parents.

Later in life, we start trying to change our environment. Younger children try to use words like magic to change things. "That WASN'T the last strawberry! It WASN'T! There's more!" I takes them a while to discover that that doesn't work, but when they do, they start learning to influence people in other ways, with begging, threats, pressure, argument, the exchange of favors.

In fact, they're no different from grownups. It's just that grownups get more skilled in these tactics.

And children also learn to doubt their parents, because sometimes our parents do what we want, and sometimes they do what's best for us, even when it's not what we want.

Anyway, we learn to see our environment as something changeable, and we learn to see the people around us as at least somewhat untrustworthy.

But what I wonder is, do we lose something important in this learning process?

It seems to me that babies are born with a certain kind of knowing--not knowledge, or information, or rational conclusions, but a kind of direct intuition.

Knowing, for example, that there is Someone greater than us, Someone on whom our life depends--and realizing that this Someone knew us before we knew Him, and called us by name before we even knew we had names

Knowing that when we cry out for help or comfort, our cry will never go unheard.

Knowing that whatever comes up in life, in the end, all will be well. We may taste pain, or hunger, or fear, or sadness, or loneliness, or separation, for a time, but finally, all will be well. We will never be abandoned.

Sometimes when I have the rare opportunity to hold a baby, I wonder, have I lost sight of something important in the process of growing up. And I think, can I get it back somehow?

赤ちゃんの英知

2011年11月、病院の職員向けの月報「明るい窓」に搭載される「チャプレンからのメッセージ」

父親になる前は、あまり赤ちゃんに注意を払わなかった。男性はそんなに触れ合う機会がない、実は。可愛らしいものだと思っていた。子犬や小人図鑑のフィギュアみたい。でもそれほど興味がない。

しかも、臭いオムツとか、泣き叫ぶこととか、親が寝不足になるとかを聞くと、その可愛らしさがなくてもいいのかな、とも思っていたのである。

ところが一人目の赤ちゃんが生まれて、初めて新生児との付き合いが始まった。抱っこして寝かせたり、その小さな呼吸音を聞いたり、ミルクを飲ませたり、胸に乗せて二人で昼寝したり、肩に乗せて散歩したりするなど、いろんな新しい経験ができた。

確かに山ほどの臭いオムツを替え、泣き叫ぶ声に耐え忍び、慢性寝不足を我慢しなければならなかったが、あまり気にならない。

赤ちゃんはすごく面白いから。謎のかたまり。いつ見ても飽きない。

しかし、やがて赤ちゃんは成長して小さな人になる。それでも一緒にいるのが楽しいけど、不思議さは確かに少なくなる。

最近、教会の祭りで、友人の7ヶ月の娘を抱っこして歩き回らせてもらった。その子は全く人見知りせず、抱かれるがままになってくれた。

(思い切りアジア人の顔をしている女の子をいろんな人に見せて「ほら、次女だよ。似てるでしょう?」と紹介して、その一瞬戸惑う表情を見るのも一つの楽しみだった...)

赤ん坊というのは、どんな状況に置かれても、その現実を素直に受け入れることは、実に不思議。そして親への完全な信頼も不思議。

成長していくとこどもは周りの環境を変えようとするようになる。自分に力がないから、周りの人を動かそうとする。うるさく願い続けるとか。脅してみる。罪悪感を抱かせてみる。論理的に主張してみる。「いいもの交換」の取り引きをしてみる。大人と変わらない。大人はただもっと上手になるだけ。

また、こどもはその親を疑うことを学んでいく。なぜかというと、してほしいことをしてくれるときもあれば、してほしいことよりも「すべきこと」をしてくれるときもあるから。

とにかく、いつの間にか、置かれている環境は変え得るものとして見るようになる。そして周りの人は、完全には信頼できない者として見るようになる。

ところが、この成長過程をたどっていく中で何か大事なことを見失ってしまうのではないか、と考えるときがある。

赤ちゃんは生まれながら、ある意味で悟りを開いていると思う。知識でも、情報でも、理屈にかなった推論でもなく、ある種の直感を持って生まれるのだと思う。

例えば、自分を越えた存在があり、その存在によって自分が生かされていることが分かる。その存在を知る前から、知られていた、自分に名前が付いていることに気づく前から、名前が呼ばれていたのだ、ということが分かる。

また、助けや慰めを求めて叫びをあげたら、必ず誰かがそれを聞き入れてくれる、と。

そして、何があっても最終的には大丈夫だ、ということが分かる。痛み、空腹、恐怖、悲しみ、孤独を一時の間味わうかもしれない。が、やがてすべてが大丈夫だ。見捨てられることはないのだ、ということが分かるのである。

たまに、赤ちゃんを抱っこさせてもらうことがあると、大人である自分が何か大事なことを見失っているのではないのかな、と思わされる。

そして、その大事なことを取り戻す方法はないだろうか、といろいろ考える。

kindergarten in a hotspot: tsunami stories (IV)

The following is an excerpt of a documentary I was recently asked to translate into English:

Kohriyama is home to Saint Paul's Kindergarten. The school is located in one of the city's so-called radioactive "hotspots."

School employees carry out decontamination efforts every single day. Both in the morning and in the evening, they break into teams to wash the entire school building. They also wipe down all surfaces inside the classrooms.

The children wear masks to school. Even the children understand that masks are helpful in avoiding contact with radioactive materials.

The high radiation levels at the school weren't discovered until more than a month after the nuclear meltdown. Inspectors from the Education ministry informed the kindergarten about the radiation amounts. The topsoil of the school grounds was immediately dug up and removed.

But no one would agree to dispose of the topsoil, so it sat in a pile in a corner of the school grounds.

Radiation measurements taken of the dirt pile were high enough to be reported in the news.

After searching for a solution to the disposal problem, the school finally decided to seal the contaminated dirt in thick rubber sheeting and bury it deep underground in an area next to the school.

Now that the dirt has been taken away, radiation levels on the school grounds are down to zero-point-three microsieverts.

For a while, requests from parents to take their children out of the kindergarten were increasing. But now that decontamination efforts have brought radiation levels down, the parents' anxiety has turned into a deepened sense of trust.
[The head of the kindergarten:] "For these children who can't leave and go somewhere else, I thought, how can we let them run around and play--how can we make sure they have a safe place to be? We've just got to clean things up and bring the levels down. That's basically the only thing I worry about every day.
We're fighting a horror that we can't see. If it had color we could wipe it up, or at least keep from touching it. If it had a bad smell we could go inside... But it's nothing like that. That's what makes it so scary."

playing funeral: tsunami stories (III)

The following is an excerpt of a documentary I was recently asked to translate into English:

On the first day back, childcare students from St. Mary's College in Nagoya came to volunteer at the kindergarten.

Their reason for coming so far to this place? They wanted to be with the children who had gone through the experience of the tsunami. What surprised the college students was how the children played during break times: "Pretend Funeral" was a popular game…
"What do you want to play? Funeral? Medicine?"
"Funeral!"
"There wasn't any medicine at Grandma and Grandpa's funeral!"
Eight children from Fuji Kindergarten died in the tsunami. For many people, starting up the school again brought very mixed feelings.
[The head of the kindergarten:] "Should we really go ahead with this after eight of our children died? Part of me thinks we shouldn't. We had about 50 children there, scared to death in the buses… We hadn't done anything at all to provide psychological care for them."
"We have a big responsibility toward the children who lived, who are alive."
It's important to focus on the here and now for the children who lived, who are alive. That's probably what Junko Nakaso, who died while trying to save her children's lives, would have wanted.

last bus ride: tsunami stories (II)

The following is an excerpt of a documentary I was recently asked to translate into English:

Minoru and Yoshimi Miyake, whose lives were lost in the tsunami, were devoted members of St. John's. Their daughter, Junko Nakaso, was also one of the victims of the tsunami.

Junko worked as a teacher at Fuji Kindergarten in Yamamoto-cho, a town just north of Shinchi-machi. On March 11, Junko and her colleagues were riding the bus home with 18 children from the kindergarten when the tsunami struck.

Reports say that the bus and all its passengers were swept along by the tsunami and struck a house, and then began slowly filling with water.

In ice-cold weather, Junko worked to get all the children safely out of the bus. While waiting for help to come, she sought to encourage the children and keep them calm. Military rescue efforts began the next morning.

By that time, Junko had already been called home to be with the Lord.

holding on: tsunami stories (I)

The following is an excerpt of a documentary I was recently asked to translate into English:

Minami Sanriku-cho in Miyagi Prefecture. Nearly three quarters of the homes in this town were lost in the tsunami.

One of the town's residents is Kiyomi Suzuki. When the tsunami struck, he barely escaped. That day, when he sensed the danger of a tsunami, Suzuki hurried to reach higher ground. He climbed to where the factory of his handicapped son was.

When he got to the top of the hill, Suzuki turned to see the tsunami pouring in over the town below. Just a few minutes later, he says, the tsunami had risen all the way to his feet.
"Uh-oh, I thought. This is not good. Then all of a sudden it came rushing up to where I was."
Desperate, Suzuki ran to the buildings behind him, but the rushing water soon rose as high as he was.
"When I got here, the water was already up over my head. So I was being pushed along with the wave…I was floating in brown water. And then I saw this [drain pipe].
Until I got here, two or three times I came close to drowning. I thought I was going to die. Oh, so this is what it's like to die, I thought. I was almost ready to give up. And then I found this drain pipe. I thought, I've got to grab onto this. I grabbed it like this… And then, a few seconds later, whoosh! The water went down. All that water, and then it was gone. There was nothing left around here. It all happened so fast. In the blink of an eye."

2011年10月27日木曜日

a call to arms (luke 4:14-21)

St. Luke's Hospital Anniversary Service
October 26, 2011 3:00 p.m.

(Note: This address was given at the worship service celebrating the anniversary of St. Luke's International Hospital. On this occasion, employees who have worked 10, 20, and 30 years were recognized, as were volunteers who have served from 100 hours to 22,000 hours. In attendance were the chairman of the board, the president and vice-presidents, and various department heads, as well the long-term employees recognized and many of the 380 volunteers who serve the hospital.)

We just read about Jesus declaring war.

Like many a politician, at the start of his public career Jesus returns to his hometown, to Nazareth, the place where he might expect his strongest support base. There, he gives his inaugural speech. He goes public with his agenda, lays out his vision for the road ahead.

And the vision he lays out is one of war.

But what kind of war? Not the kind of war his fellow countrymen were hoping for, one that would liberate them from the yoke of Roman imperial oppression. Not the kind of war that involves airstrikes, or guerilla attacks, or indeed any shedding of enemy blood. Not the kind of war that involves the toppling of governments or the seizing of territory.

Not that kind of war. But if not that kind of war, then what kind? Look at what Jesus says:
"The Spirit of the Lord is on me, because he has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to proclaim freedom for the prisoners and recovery of sight for the blind, to set the oppressed free, to proclaim the year of the Lord’s favor" (Luke 4:18-19)
So, he's talking about fighting a war against grinding poverty; against debilitating sickness; against physical, emotional, and spiritual bondage; against social oppression and injustice. In other words, it is a war against the powers of darkness that rule the human race with an iron hand.

What do all these things have in common? They distort the human person. They make it impossible to live humanly, in freedom. Jesus is going to war to restore the human person, a being with dignity and value and purpose. A being, in short, made in the image of God.

This is the fundamental understanding revealed to us by God in the Bible: Every human person is a being of great wonder and irreplaceable value, beloved by his Creator, made with care and intent.

At the same time the Bible reveals that every human person, and humanity as a whole, is set upon by powers of darkness, powers that work against God's purposes and seek to deface and destroy God's creation. And, precisely because human beings are created in God's image and endowed by God with dignity and value, these powers of darkness strive hard to rob us of our humanness.

This is the understanding revealed to us by the light of Holy Scripture.

These powers of darkness wage battle on many fronts. They work through individual sin and moral weakness and greed, through self-interest and a disinterest in the suffering of others. They work through injustice, and social evils such as strife, hunger, poverty. They work through so-called tragedies such as sickness and natural disasters.

Jesus at the beginning of his career stands up against all these forms of evil and declares: No more!

And every thing Jesus did from this point on in his life was a full-scale assault on these forces of darkness. He healed the sick. He set free those who were in bondage to evil spirits. He befriended the friendless. He comforted the grieving and those who were afraid. He hung out with people society considered worthless, the losers. He taught generosity in the sharing of material blessings. He condemned leaders who failed in their duty to protect the weak.

This was Jesus' lifework, his mission, his war.

It is our war, too. This hospital was founded to be a stronghold, an outpost in the war against the powers of darkness that threaten the human person. So, as a hospital we are also called to fight, taking our cue from Jesus Christ: 
  • We are called to carry out medical approaches that foster health, cure disease, and aid long life. 
  • We are called to alleviate pain and improve the quality of life of those who suffer. 
  • We are called to help patients and their families face the end of life with courage and dignity. 
  • We are called to help realize the physical, emotional, and spiritual flourishing of each patient, in their particular family and social contexts.
All of us have roles to play in this mission. All of us are part of the fight for the dignity of the human person. Medical teams, the support staff that make it possible to provide care, the volunteers who bring such warmth and humanity into the clinical environment.

So this hospital is called to engage in the war. But so is each one of us. We fight back against the powers of darkness whenever we, as individuals, take hold of the life we have been given, and respond with gratitude in service to others. Each of us can become an outpost of light in the darkness when we use our God-given talents and time in the service of human flourishing.

God gives wisdom and courage to those who are willing to join in the fight against the darkness. Once again, let us pray together for that wisdom and courage, and ask God's blessing on our work in the year to come.

参戦せよ!(ルカ4:14-21)

聖路加国際病院記念・福音記者聖ルカ日礼拝
2011年10月26日(水)15:00

今、読ませていただいた聖書は、イエスが戦争を宣言なさるところでした。

多くの政治家と同じように、イエスはその公の活動の始まりに当たって、その故郷、一番支持率が高いと思われる故郷であるナザレに戻り、そこで立ち上げの演説をされます。そのアジェンダを明かされます。将来的なビジョンを打ち出されます。

そして、その打ち出された将来的なビジョンは戦争だ、ということです。

しかし、どのような戦いを話しておられるのでしょうか。その同胞のユダヤ人が待ち望んでいたような、ローマ帝国の圧政からの解放につながるような戦争ではありません。また、空襲とかゲリラ攻撃など、敵の血を流すような戦争でもありません。また、政権を打倒したり、領土を奪回したりするような戦争でもありません。

そういう戦争でもないなら、では、どういう話なのでしょうか。イエスの言葉を見てみます:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
要は、苛酷な貧困に対する戦い。重い病気に対する戦い。身体的、精神的、スピリチュアルな束縛に対する戦い。社会的抑圧や不正に対する戦い。つまり、人類を厳しく支配している暗闇の力に対する戦争の話なのだ、ということです。

イエスが話しておられるこれらのことの共通点は何なのでしょうか。いずれも人間を歪めることだ、ということです。これらのことによって人間らしく生きることが殆ど不可能になるのです。だからイエスは、人間の本来の姿を取り戻すために戦争を始められるのです。尊厳を持って、生きがいを持って生きる人間、つまり神にかたどって造られた人間の回復のための戦いなのです。

聖書において神が啓示してくださっている根本的な人間理解はこれです:一人一人の人は不思議で掛け替えのない存在である。その造り主にトコトン愛されて、訳があって、たんせいを込めて造られた神の作品である、と。

同時に聖書が教えてくれるのは、一人一人の人間、そして人類全体は、暗闇の力に襲われているのだ、ということです。神に執念深く反対して、神によって造られたすべてのものを堕落させ、破壊しようとする力に。そして人間は神にかたどって造られ、神からその尊厳と価値が与えられているからこそ狙われているのだ、と。暗闇の力はその人間らしさを奪い取ろうとせっせと働くのだ、と。

聖書に照らされて得られる人間理解はそういうものです。

こういった暗闇の力はさまざまな戦線で攻撃をかけます。個々人の罪や弱さや欲張りを通して、あるいは利己心や他人の痛みに対する無関心を通して働きます。構造的な不正や抑圧、または争いや飢饉や貧困という社会的問題を通して働きます。また、病気や天災などいわゆる自然な悲劇を通して働くのです。

イエスは公の活動の始まりに当たって、これらの悪に立ち向かって:もう十分だ!と宣言なさるのです。

そして、この時点からイエスのあらゆる行動は、こういった暗闇の力への全面攻撃でした。病気の人を癒されました。悪霊に取り付かれていた人を解放されました。友のない人の友となられました。社会から疎外されている人、いわゆる「負け組み」の人々と付き合っておられました。悲しんでいる人、苦しみ悩んでいる人を慰められました。物質的に恵まれている人に物惜しみしない喜びを教えられました。弱き者を守らないリーダーたちを激しく非難されました。

これはイエスのライフワーク、その使命、その戦いでした。

わたしたちの戦いでもあります。この病院は、人間の尊厳をおびやかす暗闇の力に対して、確固たる要塞として、前哨地(ぜんしょうち)として設立されているのです。したがって、この病院に関わっているわたしたちは、イエス・キリストに倣って、いろいろな形で戦うよう求められているのです。 
  • 人々の健康を促進し、病を治して、長寿の助けとなる医療を行うよう求められています。
  • 痛み・苦しみを緩和して、病気にかかっている人のQOLを上げるよう求められています。
  • 患者さんやその家族が、勇気と尊厳を持って人生の最期を迎えることを支えるよう求められています。
  • 一人一人の患者さんの置かれている家族環境、社会環境で、その身体的、精神的、スピリチュアルな幸福(well-being)を支えるよう求められています。
このミッションにおいて果たす役割がわたしたち一人一人に与えられています。人間の尊厳のための戦いはわたしたちの戦いです。医療チームも、その質の高い医療を可能にする職員も、臨床の環境に人間らしいぬくもりをもたらしてくれるボランティアも。

だから、この病院は参戦するよう求められているわけです。しかも、わたしたち一人一人もそうです。わたしたち個々人が授かっている命をきちんと受け止めて、感謝をもってそれに応答するとき、他人に仕える形でその恵みに応えるときは、暗闇の力に反撃するときです。わたしたち一人一人も、神からいただいている賜物、才能を人々の幸福のために生かすとき、暗闇の中の光の要塞になり得るのです。

暗闇への応戦に加わろうとする人に、神は知恵と勇気を与えてくださいます。わたしたちは、これからの一年間に向かって、その知恵と勇気を求めて、わたしたち一人一人の働きの上に神の豊かな祝福をお祈りしたいと思います。

2011年10月21日金曜日

sermon preview: all you need to know

"All the Law and the Prophets hang on these two commandments" (Matt 22:40)

"All the Law and the Prophets" is shorthand for the whole Jewish Bible. In other words, the commands to love God and love neighbor sum up everything God wanted made known in the history of His people. Saved out of suffering and bondage in Egypt, the people of God learned that they had a God who was imminently worthy of their worship and their love—whose loving-kindness went out ahead of any human attempt to respond. For those who have been freed from bondage and brought into friendship with God, the only fitting response after worship is to try to live together with the same care and compassion.

説教プレビュー:これ以上知る必要はない

「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)

「律法全体と預言者」とは、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)そのものを意味する。つまり、その民の歴史を通して神が分かってもらいたかったことのすべては、「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」という二つの掟に尽きるのである。エジプトでの苦難と束縛から救い上げられた民には、神は自分たちがトコトン愛しあがめるのに値するお方である、人が天に心を上げようと思う以前にその慈しみが先に注がれているのだということが分かったのである。束縛から解き放たれて神の友情を知った人たちにとって、神を礼拝するとともに、同じような思いやりと憐れみをもって共に生きること以外に、ふさわしい応答はないのである。

2011年10月18日火曜日

get dressed and come to the party (matt 22:1-14)

(Translated from the Japanese. Translation note: The word "manners" (manaa) in Japanese has a much stronger moral connotation than in contemporary English. To have bad manners is a sin against community, a reflection, not just of poor education but of poor character.)

Seventeenth Sunday after Pentecost (Year A, Proper 23)
St. Luke's International Hospital Chapel
October 9, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist


I still have a clear memory from when I was a toddler. One night, like usual, my parents put me to sleep in their bedroom, in my baby bed, the kind with fence around it like a jail cell.

I think I must have slept and then woken up, but suddenly I became aware of something that made the blood run cold in my veins. Across the dark room, sitting on my Mom's big chair, was a huge, black gorilla. He must've weighed 300 kg. He was absolutely still, just staring at me.

I thought, "I have to be quiet! If I make a noise, he's gonna get up and come over here…"

I sat in the darkness for what seemed like hours, staring at the gorilla, ready to scream if he moved. I was terrified. Finally, I decided I had to make a break for it…

It took me a while to screw up my courage. Then, I climbed over the fence, jumped to the floor, and ran. I ran like the wind down the hall, turned the corner, dashed into the living room--where I found myself in a brightly lit room full of people, all talking and laughing. A fire was going in the hearth. There was popcorn out. People were drinking wine and egg nog.

It was December 31. My parents were having a New Year's Eve party.

I reported the gorilla to Mom and Dad. They were…skeptical. But I begged them, so we all went back to the bedroom and turned on light. Wouldn't you know it, that clever gorilla had put some shopping bags on the chair and covered it with my father's raincoat to make it LOOK sort of gorilla-like. So, he could make a clean getaway without rousing suspicion.
 (NOTE: The congregation was absolutely silent at this point. No smile or chuckle anywhere. Yikes!)
 +   +   +
So, before, I was in darkness, alone, afraid, paralyzed by fear. I thought I might get hurt or die. I felt trapped, powerless, small.

Then suddenly, I was in the middle of a party. People were happy. I was set free from fear. I even got to eat popcorn and drink root beer!

I suspect that the people who responded to Jesus' call to enter into the Kingdom of God had a similar experience--only a much, much bigger, better experience.

Let us recall that the Kingdom of God is not a place found on a map and it's not somewhere you go after you die. The Kingdom of God is friendship with God, and fellowship with God's friends, here and now. To be in the Kingdom is to be free from the weight of guilt, reconciled to God, and living a common life centered around mutual love and service.

Imagine you're living in Palestine 2,000 years ago. Now imagine you're a hated tax-collector, or a prostitute, or a so-called bad apple, or a loser, or a foreigner.

There are some Jews who seem to have it all together. They obey every last commandment in the Torah, and even all the rules and regulations set up to make sure they never even come close to breaking a commandment. They pray seven times a day, tithe 10% of EVERYTHING, never even so much as carry a fig on the Sabbath, never contaminate themselves with profane things or interact with sinners. They're above all the grime and sin of the world.

But not you. You're right in the thick of it. Maybe it was the family you were born into, or maybe it was bad decisions you made, or maybe somebody wronged you, or maybe you just messed up--but you're a sinner. You know it. Everybody around you knows it.

And one thing seems certain. The Pharisees are in good with God, but sinners can't approach Him. Just as a flaming sword barred Adam and Eve from going back to the garden (Gen 3:24), your sinfulness stands between you and God, blocking your way, keeping you from grace.

As a sinner, you may not even WANT to approach God. After they sinned, Adam and Eve hid from God. Guilt is like a 300 kg gorilla that keeps us cowering in a corner. We know that, as a sinner, to encounter God is to encounter wrath, to encounter judgment.

But then Jesus of Nazareth comes along and says: "Come! Repent and enter the Kingdom. Come and be friends with the Father. His love is a lot bigger than your sinfulness. Repent, receive forgiveness, join the Kingdom party."

Well, would you accept Jesus' invitation?
+   +   +
In Jesus' day, the ones who refuse the invitation are the ones who seem to have it all together. They think they have a right to enter the Kingdom of God, so they don't need an invitation. I don't need an invitation to sit at my own dining table.

So God's invitation falls on deaf ears. In the parable Jesus tells, the king (=God) even condescends to plead with the invited guests. "Tell those who have been invited that I have prepared my dinner: My oxen and fattened cattle have been butchered, and everything is ready. Come to the wedding banquet" (Matt 22:4).

"But they paid no attention and went off" (Matt 22:5).

But you don't earn your way into the Kingdom. It's strictly by invitation only, and the fastest way to get yourself uninvited is to act like you've got a right to be there. The Pharisees had no time for Jesus--or for John the Baptist either, for that matter--saying "Repent!" They were like: "Repent? Of what?"

"The wedding banquet is ready, but those I invited did not deserve to come," says the Lord.
+   +   +
So, entering into the Kingdom is by invitation only. But just look at who God invites:
"'Go to the street corners and invite to the banquet anyone you find.' So the servants went out into the streets and gathered all the people they could find, the bad as well as the good, and the wedding hall was filled with guests" (Matt 22:9-10).

The bad as well as the good. Normal people, as well as prostitutes, tax-collectors, sinners, losers, foreigners, and bad apples. "Anyone." Even people like you and me!

There is no minimum requirement for entering the festival of the Kingdom. All you've got to do is accept the invitation.

What that means is: Churches are always going to be full of sinners. A few really good people, a few really awful sorts, and a lot of folks somewhere in between. And if you don't like some of the people sitting here this morning...well, the king is the one who gets to do the inviting.

So, there's no requirement to be saved. And that's what the Kingdom invitation is, isn't it? To come in from the darkness and hopelessness of a life of serving yourself, and to enter friendship with God, and fellowship with God's friends, and a life of serving others in love.

Aside from saying, "Well, okay" to the invitation, there are no other requirements to be saved.

Well, actually, there are requirements, pretty steep ones--and Christ satisfied them all on the cross on our behalf. His blood quenched the fiery sword that barred sinners from grace. His light has conquered the darkness. He has taken away the 300 kg gorilla of guilt.

Thanks to Christ, our encounter with God is no longer an encounter with wrath and judgment, but an encounter with forgiveness and mercy.
+   +   +
So the requirement for salvation has been fulfilled. Nothing remains for us to do other than accepting the invitation.

There are, however, manners befitting those who've been saved. I want you to stay with me through this last turn: There's absolutely nothing we can do, no work that can earn salvation, earn a place at the banquet table. But there are manners that are expected of the guests.
"But when the king came in to see the guests, he noticed a man there who was not wearing wedding clothes. He asked, ‘How did you get in here without wedding clothes, friend?’ The man was speechless" (Matt 22:11-12).

What exactly are these wedding clothes? I think St. Paul can help us out here:
Kill off everything connected with the life that leads to death: sexual promiscuity, impurity, lust, doing whatever you feel like whenever you feel like it, and grabbing whatever attracts your fancy…It's because of this kind of thing that God is about to explode in anger. It wasn't long ago that you were doing all that stuff and not knowing any better. But you know better now, so make sure it's all gone for good: bad temper, irritability, meanness, profanity, dirty talk. Don't lie to one another. You're done with that old life. It's like a filthy set of ill-fitting clothes you've stripped off and put in the fire. Now you're dressed in a new wardrobe. Every item of your new way of life is custom-made by the Creator, with his label on it. All the old fashions are now obsolete….
  So [since you have been invited by God,] dress in the wardrobe God picked out for you: compassion, kindness, humility, quiet strength, discipline. Be even-tempered, content with second place, quick to forgive an offense. Forgive as quickly and completely as the Master forgave you. And regardless of what else you put on, wear love. It's your basic, all-purpose garment. Never be without it. (Colossians 3:5-14)
Christ has invited us to the wedding baquet. He has given us new clothes to wear, given us the strength to live as new people. Why would we show up wearing our old, grubby street clothes? Why would we keep on living in all the same ways as before?

Lord, help us to appreciate the feast that you have prepared for us. Help us to understand the joys of life with you.

着替えて、パーティーにおいでよ!(マタイ22:1-14)

聖霊降臨後第17主日(A年・特定23)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年10月9日・10時30分 聖餐式


一つ、幼子の時のはっきり覚えている記憶があります。ある夜、いつものように、親がわたしを彼らの寝室に置いてあったベビーベッドに寝かしました。このベッドは、牢獄のように、周りに柵が巡らされているタイプでした。

たぶん眠りから目が覚めたと思いますが、突然恐ろしいことに気づいてゾッとしました。それは、暗い部屋に置いてあるお母さんの椅子に、ものすごくデカイ、真っ黒のゴリラが座っているわけ。300キロぐらいの大きさでした。ゴリラが動かず、わたしの方をじっと見据えているわけです。

「ヤバイ!静かにしないと、彼がこっちにやってくる!」と思ってあせりました。

長い間、暗闇の中じっと座り込んで、ゴリラを見据えていました。叫ぶ準備はできていました。でもその状態が長引くと、ようやく「ここから脱走しなきゃ」という結論に至りました。

そのための勇気を搾り出すのにちょっと時間がかかりましたが、「いっせいのせ!」と柵を乗り越え、床に飛び降りて、走り出しました。長い廊下を風のように速く走り、曲がってリビングに入ってしまいます。すると、明るいリビングが人でいっぱい!みんな話したり笑ったりしています。暖炉で火が燃え上がっています。ポップコーンやお菓子があっちこっちに置いてあります。みんな何か飲み物を飲んでいます。

実は、大みそかの晩で、両親がニューイヤーズイブ・パーティーを開いていたのです。

もちろん両親にゴリラのことを報告しましたが、信じてもらえませんでした。でも落ち着かないので、みんなで寝室に戻りました。すると、電気をつけて見ると、なんとずる賢いゴリラがデパートの袋を椅子に置いて、その上に父親の黒いレインコートをかぶせて、ちょっとゴリラっぽくしたのです。そうやってゴリラは無事に逃げることに成功したわけです。
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とにかく、それまでに暗闇の中で、一人ぼっちで、恐怖のあまり動けなかったのは事実です。抜け出せないだろうと思っていました。無力感を覚えていました。

そして突然、パーティーの真っ只中にいました!周りはみんな幸せでいっぱい。もう、恐れることはない。しかも、寝る時間はとっくに過ぎていたにも拘わらず、ポップコーンを食べコーラも飲ましてもらえました!

きっとイエスが神の国に人を呼び掛けられたとき、それに応じた人たちは似ているような経験をしたと思います。ただもっともっと大きい、もっと深い経験をしたと思います。

確認させていただきたいのですが、天の国・神の国というのは、地図に載せるような場所でもないし、死んでからの行く先でもありません。神の国というのは、今ここで、神の友である状態、神のほかの友だちとの交際がある、と言ってもいいと思います。神の国に入るというのは、罪悪感から抜け出して、神との和解を得ること、互いに仕え合うという共同生活を送ることです。

さて、2000年前に、パレスチナに住んでいることを想像してみてください。しかも、あなたはエリーとではなくて忌み嫌われる徴税人、あるいは娼婦、いわゆる「素行の悪い人」、いわゆる「負け組み」の人、それか外人であることを想像してみてください。

神の民の中で、とてもしっかりして、ご立派な体面を保つ人がいます。彼らは律法の掟をきちんと守ります。掟を犯さないために山ほど必要以上の規定をきちんと守ります。毎日7回祈ります。ありとあらゆるものの10分の1を捧げ物にします。安息日になると、一個のイチジクでさえ運びはしません。汚れているものに接触しないし、罪人との交際はしません。世の中の卑しい、罪深いことと全く関わっていません。

でもあなたは違います。あなたはそれらの真っ只中にいます。いかがわしい家に生れたかもしれません。自分自身が間違った選択をしてきたかもしれません。誰かからひどい扱いを受けたかもしれません。ただ大失敗をしただけかもしれません。とにかく、あなたは「罪人」の運命を受け入れざるを得ないのです。それが自分にも分かっているし、周りにも分かっています。

そして一つ確かだと思われることがあります。それは、立派なファリサイ派の人々は神に好意をもたれているけれども、あなたみたいな罪人は神に近寄ることは不可能だ、ということ。アダムとエバがエデンの園に戻れないように「きらめく剣の炎を置かれてた」と同じように、あなたの罪深さがあなたと神との間にあって、ブロックしています。恵みから遠ざけているのです。

罪人はどっち道、神に近寄りたくないでしょう。アダムとエバは罪を犯してしまった後、神から隠れたのです。罪悪感は300キロのゴリラのように、わたしたちを怖がり屋にしてしまうのです。罪人にとって、神との出会いは怒りとの出会い、裁きとの出会いなのです。

ところが、そこでナザレのイエスがあなたに仰います:
 おいでよ!悔い改めてみ国に入りなさい。父の友になりなさい。あなたの罪よりも父の愛の方がはるかに大きい。悔い改めて、赦しをいただきなさい。そしてみ国の祭りに参加しなさい。

さて、あなたは、イエスに招きに応じますか?
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イエスの招きに応じないのは、一番しっかりしてそうな人たち。当然、神の国に入れるだろうと思っている人たちです。招かれる必要なんてない。自分の食卓に座るのに、招待状はいりません。

だからファリサイ派の人々は神の招きを聞き捨てにします。イエスのたとえ話では、神を表す王様は、王様らしくなくお客さんにお願いします。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』(マタイ22:4)

「しかし、人々はそれを無視した」(マタイ22:5)

み国に入るのは、自分の功によるものでも、良き働きによるものでもありません。招待客のみが参加できることです。そして招待されない方法は、招待されなくてもいいのだ、と思い込むことです。ファリサイ派の人々は、イエスも、洗礼者ヨハネも相手にしません。2人とも「悔い改めなさい」と訴えていたのです。ファリサイ派の人々は「悔い改める?!何を!?」

『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。』(マタイ22:8)
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だから神の国に入るのは、招待客のみのことです。でも信じられない人が招待されるのです。
「『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタイ22:9-10)

善人も悪人も。普通の人も、徴税人も、娼婦も、素行の悪い人も、負け組みの人も、外人も。「だれでも」。皆さんも。わたしも。

だから結果として、教会は常に罪人だらけ!2人-3人とてもいい人がいて、2人-3人とても嫌なやつがいて、そして大勢の人はその間に入るはず。なので、何でこの人と共に礼拝しなくてはならないか、と思ったことがあるかもしれません。でも招待ができるのは、王様のみ!

だから、救われる資格はありません。結局、み国に入るというのはそういうことです。暗い、むなしい生き方、自分を中心とする生き方から脱出して、神の友達になり、神の友達と仲間になって、他の人に仕える生き方に入ることです。

招かれたら、「いいとも」と応える以外に、救いの要件はありません。

いや、はっきり言いますと、実は要件があります。実は極めて厳しい要件があります。けれども、十字架の上でイエス・キリストがその要件をすべて満たしてくださいました。イエスの流された血が、罪人を神から遠ざけていた剣の炎を消しました。イエスの光は暗闇を打ち勝っています。イエスは300キロのゴリラである罪悪感を追い払ってくださったのです。

キリストのおかげで、神との出会いは、もはや怒りとの出会い、裁きとの出会いではなくて、赦しと憐れみとの出会いに変わっています。
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だから、救いの要件は満たされています。残っているのは、招きを受け入れるだけです。

ところが、救われた者としてのマナーはあると思います。ここは誤解してほしくないところです。救いに値するようなことはありません。自らみ国の宴の席を確保する方法はありません。しかし、み国のお客さんに求められるマナーはあると思います。
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていた。」(マタイ22:11-12)

この「婚礼の礼服」は一体何なのでしょうか。ここで聖パウロは明らかにしてくれると思います(コロサイ3:5-14):
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい...これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです...
 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
 
わたしたちはキリストによって結婚パーティーに招かれています。しかも、それにふさわしい礼服もキリストが用意してくださっています――つまり、生まれ変わった者として生きる力を与えてくださるのです。どうして、古い、汚れている服を着たまま出席するのでしょうか。どうして、依然としてそのままの生き方をしようとするのでしょうか。

主よ、どうか主が用意してくださったご馳走を、感謝をもって味わうことができますように。どうか、キリストと共に生きる喜びが分かることができますように。アーメン。

2011年10月14日金曜日

the soccer ball

One of my young friends wrote a story, called "The Soccer Ball." Her aunt puts books on computer for people with vision disabilities, and now the story is on You Tube, too. It's a story about an ethical dilemma, and holds some real tension at points. The author is also reading the story. Someone else did the graphics.


Check it out!

hey, thanks

I was up for three or four hours last night, in pain. First, I thought it was heartburn, which I almost never get. Eventually, it felt like my stomach was being twisted like a washcloth.

I tried to ignore the pain for awhile but couldn't. I tried shifting positions. Sitting up. Drinking water. Walking around. Nothing helped.

After a while, the pain got so intense I started to worry. I'll have to get my fellow chaplain to take morning prayer, to give the talk at the noonday concert. And what about the wedding tomorrow? Can I celebrate while doubling over in agony?

Finally, it hurt so much I thought I might scream.

At that point (why did I wait?), I prayed. Jesus, take away this pain. Jesus, just take away the pain enough so I can rest a little.

After one last agonizing stab, the pain started receding. Like an electric stove when you turn off the burner.

Within five minutes, the pain was completely gone, and I fell asleep.

Hey, thanks, Jesus.

ある思考実験

あるホテルを取り壊して新しい建物を建てることが計画されていた。

そのために解体作業の業者たちはホテル中、完全に崩されるように爆発物を仕掛けてきた。

いよいよ取り壊す日が来た。遠く離れたところで監督が爆発スイッチを入れる1分前、部下の一人が走って寄ってくる。「監督!スイッチを入れないで!だれかホテルの中にいるかもしれません!」

「かもしれない?何それ?いるかいないか、どっち?」

「今の時点で確実ではないけれども、いる可能性はあります。」

「なんてこった!スケジュールより遅れると大変なことになっちゃうよ。遅延罰金が生じるし。ああ、面倒くさい!こんなことに時間を無駄にする暇はないよ。あと30秒しかない。はっきり言え。ホテルに人がいるか、いないか?」

「確かにいるとははっきり言えません。でもその可能性は間違いなくあります。しかも人がいったら、監督がスイッチを入れることは人殺しになってしまうので、止めてください。お願いします!」

6...5...4...3...2...1

さあ、あなただったら、どうする?スイッチを入れる?入れない?

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母の胎内にできた赤ちゃんは、人間としての命をいつから持つようになるのか。

確実に言えなければ、それでもあえておろすことは、人殺しである可能性はあるのではないだろうか。

「あなたはわたしの内臓を造り∥母の胎内でわたしを組み立てられた」(詩編139:13)

胎内の赤ちゃんは人間としての命をもっているかどうか、神はご存知である。その命が大事にされていることは、神の望み。

最も弱くて頼りない命を含めて、すべての命を大事にしましょう。

2011年10月13日木曜日

back to india

Mari shows me pictures from last year's school album. She was eight then, and had long, dark hair. She's nine now. Her smile hasn't changed at all. She's smiling all the time, with her eyes and her whole face.

Mari was going to an international school in India before she got sick. She has three best friends. One is Japanese, like Mari, and the other two are Korean.

It turns out that the Japanese girl used to school with a boy who was also treated for leukemia at St. Luke's. "It's a small world!" Mari and I say it at exactly the same time. She giggles, and I am very happy.

"India is a country of wonder," she says in Japanese (fushigi no kuni). She mostly speaks English with me, though. Neither of us has other people to speak English to.

She has an unidentifiable accent, a little British, a little American, and little Indian, a little Japanese. Her English is miles better than her Mama's, but I can tell they enjoying sharing a foreign language. They can both speak a bit of Hindi, too. I am jealous.

Mari waxes poetic as she describes Indian food. She's okay with spicy hot, she says proudly. She's very careful to distinguish North Indian from South Indian cuisine. I wish I were more cosmopolitan so I could understand the difference better. Nan versus rice, is about as much as I could pick up.

Mari has finished all her chemo. It went well, and we're all just waiting for her white blood cell count to return to normal. She doesn't know how to say "white blood cell count" in English. Of course. She never had to give it a thought before. Nine year old children shouldn't have to learn such words.

All this waiting, and praying...it is a river of anxiety, half-born sorrow that flows through our lives, just under the surface. We all silently agree not to acknowledge it very much. It could drown us.

Merciful God, please keep the light of Mari's smile shining in this world. In Japan. In India. In my heart.

2011年10月7日金曜日

sermon preview: salvation and good manners

"But when the king came in to see the guests, he noticed a man there who was not wearing wedding clothes. He asked, 'How did you get in here without wedding clothes, friend?'" (Matt 22:11-12)
There's no minimum requirement for entering the festival of God's Kingdom. On the contrary, for people "without one plea," there's nothing we can accomplish to make us worthy of the grace of salvation. Indeed, it's only by God's loving-kindness that people who have no anchor, no place to turn in the world are invited. So, there's no requirement to be saved. There are, however, manners befitting those who have been saved. The person who, even after having met Christ, keeps on living in all the same ways as before is a lot like someone who shows up to a wedding reception wearing grubby street clothes. Someone who takes such a cheeky attitude hasn't yet understood the joys that are prepared for us.

説教プレビュー:救われた者のマナー

「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。」(マタイ22:11-12)
み国の祭りへの「入場資格」なんてない。逆に「いさおなき」人間が何かを成し遂げて救いの恵みに値することはあり得ない。むしろ、人生のよりどころがない、行き場がない人々はただ単に神の慈愛によって招いていただいているのである。だから救われる資格はない。が、救われた者としてのマナーはある。キリストに出会った後も、今までの生き方をそのまま続ける人は、汚れた服を着て披露宴に出席する人に似ている。そこで用意されている喜びがまだ分かっていないから、そういうずうずうしい態度を取るのであろう。

2011年10月5日水曜日

悲しんでいる神のもとに立ち帰る(ホセア13:4-14)

聖ルカ礼拝堂 夕の礼拝 2011年10月2日

神の心に大きな葛藤がある。 一方では、神はその民をトコトン愛している。他方では、神は裏切り者であるその民にひどくがっかりして、無念極まりない。

ホセア書の背景について一言。ホセアは、紀元前8世紀、イスラエルで活躍していた。イスラエルとは、2つに分かれたユダヤ人の国で、北の王国。その国がアッシリア王国に壊滅させられる直前、ホセアが神の預言者として活躍していたのである。

ちなみにイスラエルが滅ぼされたのは、紀元前721年。だから「ナニィ?!」で覚えられる。ついでに、ユダ・エルサレムがバビロニア王国に征服されたのは、紀元前586年...コムロ?

とにかく、ホセアを理解するためには...
預言者として、彼は神のみ思いと深く共感できたのだ、ということ。父なる神と同じ心境になり切っていたのです。だからホセアも、その同胞であるイスラエルに対して愛が燃え上がっていたと同時に、イスラエルに対するせつない気持ちと怒りを抱いていた。

だから、ホセアに授かったみ言葉はすべて、そういう心の嘆きとして捉えるべきである。脅しでも、宣言でもない。

聖書的に言うと、預言は将来の出来事についての話ではなくて、今、この状況に置かれているこの民に対する神の思い、それが預言である。だから「預言」と書いて、「予言」とは書かないのである。

ホセアが嘆いていたイスラエルの過ちは何でしょう。さあ、どこから話せばいいか分からない!

まず、イスラエルは政治的に多くの相手と遊び回っていたことがあった。神に信頼を置けるのではなくてさまざまな戦略的提携を頼りにしていたのである。

これで、自分たちの立場を強く守れると思っていたのである。でもホセアはこの考えに対して無意味だ!と言うわけ。アッシリアが近いうちに来るぞ!そして来たら、どんな条約を結んでいても、何の役にも立たないぞ。

さらに、イスラエルの民は周りの国と見境なく交際していたこともあった。その風習と宗教的に様子をどんどん取り入れていた。

彼らが考えていたのは、我々に示されているアブラハム、イサク、ヤコブの神を拝みつつ、周りの国の神々をも拝む、という都合のいいことだった。

だから、高台でいけにえを捧げたり、たまには自分たちの子どもをもいけにえにしたり、礼拝の中で性行為を行ったり、酔っ払ったりしていたようである。

ある意味で、周りの神々は目に見えない「天地万物の神」より近い存在になっていたでしょう。分かりやすいでしょう。そういう神々はどちらかというと人間臭い部分がある。

でも明らかなご利益である。お香とかワンカップ酒とか何かの備えを捧げれば、豊饒[=子作り]や豊作や雨などをいただける。さっぱりする。

逆に天の父なるまことの神だったら、すべての恵みを与えようとしておられる、惜しまず与えようとしておられる。ただ、供え物として何を求められるかというと、正義と愛、憐れみ、忠実であること。

大変過ぎる。

とにかくまことの神もその他の神々も、両方を拝めば万全だ、と思っていた。そうやって抜け目がないのだ、と。

ホセアはこの都合のいい思いを今日、読んだところで打ち砕く:
「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はないのだから。荒れ野で、乾ききった地でわたしはあなたを顧みた。養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた。」(13:4-6)

そして神の怒りが湧き出る。
「そこでわたしは獅子のように、豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように彼らを襲い、脇腹を引き裂き、その場で獅子のように彼らを食らう。野獣が彼らをかみ裂く」(13:7-8)

子を奪われた熊のように。熊にとって最も大事なことは自分の子供たち。それが奪い取られたら、怒りを覚える。

神にとって最も大事なことは、その民とのつながりである。それが奪い取られたら、怒りを覚えるのである。
+   +   +
神と同じ心境のなっているホセアは、神の悲しみ、くやしさに心打たれている。

ただし、わたしが先言ったように、これは最終的な判決でも予告でもない。神の怒りを伝える話し方である。ホセア書を続けて読むと、また和解への呼びかけも出てくるのである。

でもその怒りより深い感情もあった。それは、民に対する神の慈愛である...
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」
「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。」
(11:1,3)

父親よりも、母親よりも、旦那よりも、神の愛は深いものである。どうして偽りの神々のところに行ってしまうのか!すべての恵みは神からのものであるのに!
「[わたしの民]は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、[偶像]を造るため使ってしまった金銀をも、豊かに得させたのはわたしだということを。」(2:10)

顧みてくださる神はお一人だけである(出エジプト3章の「わたしの民の叫び声を聞き、その痛みを知った」というシーンを思い出す。)

わたしたちを知り尽くされて、それにも拘わらずトコトン愛してくださる神は、お一人だけである。
+   +   +
ホセアは神の思いに深く共感できた一つの理由は、実際に妻に不貞をされていた男だからでしょう。

妻との間に3児を使ってから、移り気な心を持っている妻は家出して別の男のところに走ってしまう。

やがて不倫もうまく行かない。最終的には、妻が売春(性的奴隷)に陥ってしまう。

そこで神はホセアに仰る:出掛けて、妻を連れて帰ってきて、仲直りをせよ。

律法から見ても、普通の精神状況から見ても、かなり無理なことだと思う。でもホセアは神に従い、妻を再び迎え入れる。

このことによって、わたしたちは神の心を垣間見るができる。
「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』」(3:1)
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わたしたちがあらゆる意味で不忠実であるとき、神を無視するとき、ほかの神々を拝んだり、ご利益主義的なことを頼りにしようとするとき、自分の都合のいいことばかりを考えて生きるとき---神はこういうときに深く悲しみ、怒りを覚えられる。そういうお方である。

と同時に、それでもわたしたちとつながっていたい、という底の知れない思いも抱いておられるのである。

イエスの十字架でこの二つの側面が示されている。十字架によって、神から離れてしまうわたしたちの本当の立場が明らかにされている。そして、それをどうしても乗り越えようとしておられる、神の深い慈愛が明らかにされている。

こういった神の愛をあまり知らないでいる気がする。ちょっとせつない。わたしたちの裏切りで悲しんでいる神の痛みを黙想したいと思う。

そして、常にわたしたちとの和解を待ちわびている神のみもとに急いで立ち帰りたいと思う。

2011年10月2日日曜日

me and mr. st. james

As a hospital chaplain, I never know what I'm in for when someone calls to make an appointment.

Last week, I got a call from a woman I vaguely recalled having met once before. "I want to ask you about 19th century Evangelicalism in the Church of England."

Yeah, right, I thought, I've heard that one before (?). I made the appointment, figuring we would talk for a few minutes about Wilberforce and Spurgeon and then she would unload about her horrid recent diagnosis, or her shattered relationship with her boyfriend, or her grief having lost her mother, or her conviction that "They" were planting bugs in her bedroom.

But no. She wanted to talk about...19th century Evangelicalism in the Church of England. For a research paper on Jane Eyre. Jane's relationship with her Calvinist cousin, Mr. St. James.

Well, it's easily been 25 years since I read Jane Eyre. But we had a good time talking about Wilberforce and John Newton, the Continental Reformation and Puritanism, as well as John Henry Newman. We both shook our heads and tut-tutted at the grim doctrine of Total Depravity. I gave Calvin’s concern for the sovereignty of God its due five minutes and then went all Armenian on the subject of free will.

But as we were talking I realized something: Whatever their stripe, all those Evangelicals were tapping into some kind of huge energy source. Wilberforce’s tireless, decades-long campaign against slavery. Charles Spurgeon’s impassioned, prodigious preaching. A whole army of Christians setting out across the globe into hostile, unpleasant, sometimes lethal situations to spread the good news of Jesus Christ.

They had all discovered some secret spiritual dynamo that gave them the courage, the endurance, the eagerness, the creativity to do all these things.

And I knew what that dynamo was: Amazing grace, how sweet the sound, that saved a wretch like me.

The knowledge that God, the Creator of Heaven and Earth, the Righteous and Holy Judge, would bother to notice, much less reach down and lift up...even one such as me.

Then it clicked. I may not be a five-point Calvinist*. But I am a forgiven sinner. And knowing that I am a sinner, and knowing I that I have nonetheless been forgiven extravagantly by a gracious God--yeah, that knowledge is for me a source of actual energy and encouragement, even in the daily grind of ministry.


* The five doctrinal points of Calvinism are represented by the acronym TULIP:
Total Depravity (the unaided will is incapable of doing good)
Unconditional Election (God doesn't look into the future and see our choices before electing us)
Limited Atonement (Christ's atoning work only extends to the elect)
Irresistible Grace (I'm just a sinner who cain't say no)
Perseverance of the Saints (once saved always saved)